朝食を終えると、ポニーの家にはいつもの朝が始まった。

子どもたちは食器を片づける者、庭へ飛び出していく者、先生に呼び止められて渋々部屋へ戻る者。

それぞれが思い思いに動き始める。キャンディはその様子を眺めながら、エプロンを外した。

今日は夜勤、出勤まで先生たちの手伝いをしてから診療所へ向かうつもりでいる。それまでには、まだ時間があった。

「先生、ちょっと丘へ行ってきます」

ポニー先生が笑顔で送り出す。キャンディは外へ出た。朝の空気には、まだ少し涼しさが残っている。

慣れた道を歩き、草の斜面を登っていく。やがて丘の上へ辿り着く。大きな木が、昔と変わらずそこに立っていた。

キャンディは幹に手をかけると、慣れた動きで枝へ登り、昔より少し高いところまで。太い枝に腰を下ろし、幹へ背を預ける。そこからは、ポニーの家がよく見えた。

朝の光を受けた屋根、庭を走り回る子どもたち。その向こうには麦畑が広がり、さらに遠くには淡い青色の山々が連なり、風が吹くたび、麦の穂が波のように揺れた。

いつもの景色、何ひとつ変わらない。キャンディは目を細めた。

ここから始まって、いろいろな場所へ行った。ラガン家、レイクウッド、セントポール学院。シカゴ、そして今はこの村の診療所で働いている。

テリィが、ここへ来て数日過ぎた。ここに来た理由は、ポニー先生とレイン先生に二人で婚約を報告するため。そして、マーチン先生やカートライトさんにも会った。

キャンディが暮らしてきた場所へテリィが入り、これまで別々だった二つの世界が、初めてひとつに繋がった。胸の奥が温かくなるけれど同時に、ほんの少しだけ痛んだ。

結婚すれば、ニューヨークへ行く。ここへ帰ってこられなくなるわけではないし、先生たちにも、子どもたちにも、また会える。

でも、ここが「毎日の場所」ではなくなる。そう思った途端、見慣れているはずの景色が、急に愛おしく見えた。キャンディは膝を抱えた。

「……寂しくないって言ったら、嘘になるわね」

小さく呟いたそのとき、丘の下から一人の足音が。けれどキャンディは気づかなかった。

約束より早くポニーの家へやって来たテリィは、キャンディの姿がないことに気づいた。

昼にはシカゴへ向けて発つ。その前に、もう少しだけ彼女と過ごしたかった。ポニー先生に教えられ、テリィは一人で丘へ向かった。

――ポニーの丘。

その名前は、ずっと前から知っていた、セントポール学院にいた頃から。

学院の敷地にあった小高い丘をキャンディが勝手に『にせポニーの丘』と名づけた。

もっとも、あそこはキャンディがそう呼び始めるより前から、テリィにとって授業を抜け出して一人になるための場所だった。そこで何度、キャンディと顔を合わせただろう。

離れてから届いた手紙にも、ときどきこの丘は登場した。いつか見てみたいと思っていた場所だった。

今回ここへ来てからも、そのつもりではいた。けれど婚約の報告や挨拶に追われ、気づけば最後の朝になっていた。

丘の上へ着いたテリィは、辺りを見回した。誰もいない。

「……キャンディ?」

返事はなかった。テリィはしばらく辺りを見回し――ふと、大きな木を見上げた。そして笑った。

「やっぱり」

太い枝の上に、見慣れた金色の髪が見えた。キャンディはまだ気づいていない。

テリィの口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。ぴゅう、と口笛を吹いた。

「おい、キャンディ。丸見えだぜ」

「え?」

キャンディが下を見る。テリィは木の下から彼女を見上げていた。キャンディの顔色が変わった。

「うそ!」

慌ててスカートを押さえる。もちろん、そんなはずはない。枝の上にきちんと腰を下ろしているのだから、下から何か見えるような格好ではなかった。

だが、キャンディは真に受けた。

「ちょっと、テリィ! 見ないで――きゃっ!」

慌てて身体を動かした拍子に、足が枝から滑った。

「キャンディ!」

テリィの表情が一変する。次の瞬間には幹へ手をかけ、驚くほど素早く木へ登っていた。

「動くな!」

キャンディが体勢を立て直すより早く、テリィの腕が彼女の身体を支えた。

「ほら」

しっかり枝へ座らせる。キャンディは幹につかまりながら、ほっと息を吐いた。そしてすぐにテリィを睨んだ。

「もう! 危ないじゃない!テリィが変なこと言うから!」

「まさか本気にするとは思わなかったんだよ」

「だって、丸見えって!」

「冗談だよ」

テリィは堪えきれず笑った。キャンディの頬がみるみる赤くなる。

「テリィ!」

「悪かった、悪かった」

まるで反省していない。キャンディはますます頬を膨らませた。

「もう知らない!」

「落ちそうになったきみを助けたのは俺だぜ」

「誰のせいで落ちそうになったのよ!」

「それも俺」

あっさり認められ、キャンディは言葉に詰まった。

テリィは笑いながら、キャンディが座る隣のところに太い枝を見つけた。

「ここ、座れるな」

器用に身体を移し、腰を下ろす。キャンディが目を丸くした。

「テリィもここにいるの?」

テリィは何も言わず、キャンディが見ていた方向へ顔を向けた。

「それにしても、きみは相変わらず木の上が好きなんだな」

テリィが枝に腰を落ち着けながら言った。

「相変わらずって……今は昔ほど登らないわよ」

「昔ほど、ね」

「本当よ。子どもの頃みたいに毎日のようには登ってないもの」

「それは大人になったと言えるのか?」

「言えるわよ!」

キャンディはむっとしてから、ふとテリィを見た。

「そういうテリィは?最近、木に登った?」

思いがけない質問だったのか、テリィは一瞬黙った。

学院にいた頃は登ってたでしょう?」

「ああ、そうだなぁ」

「ニューヨークへ行ってからは?」

テリィは記憶を辿るように目を細めた。

「ほとんどないな。数えるほどだ。ニューヨークじゃ、木に登る用事なんてないからな」

「そうよね。でもぜんぜんてわけではなかったのね」

テリィは答えようとして、ふと昔の光景を思い出した。あれは舞台を終えた帰りだった。

劇場の裏口を出たところで待っていたファンに見つかり、声をかけられた。最初は数人だったはずが、気づけば人数が増え、サインを求める者や話しかけようとする者たちに囲まれていた。

ようやく人の波を抜け、駐車場まであと少し――というところで、今度は別の一団がこちらへ向かってくるのが見えた。

このままでは、また見つかる。咄嗟に辺りを見回し、目に入ったのが一本の木だった。考えるより先に登っていた。

そこまで思い出したところで、テリィがくすっと笑った。

「何?」

キャンディが不思議そうに覗き込む。

「いや。思い出した。ニューヨークで木に登ったときのこと」

キャンディの目が輝いた。

「そんなに楽しい話じゃないよ」

「それ、聞きたいわ」

「大した話じゃない」

「それでも聞きたい」

キャンディは少しだけ真面目な顔になった。

「テリィは言ってくれたでしょう?自分の知らない私がまだたくさんいるって。もっと知りたいって」

「ああ」

「でも、それは私も同じなのよ」

テリィがキャンディを見る。

「私だって、私の知らないテリィを知りたいわ」

離れていた年月。キャンディの知らないところで、テリィがどんな毎日を送り、何を見て、何に笑い、何に困ったのか。

舞台の上のテリュース・グレアムではなく、その時間を生きていたテリィを。

「だから教えてほしいの」

そう言って笑うキャンディを、テリィはしばらく見つめてから笑った。