マーチン医師への挨拶を終え、診療所を出た頃には、陽はずいぶん高くなっていた。
「次はカートライトさんのところ?」
テリィが尋ねると、キャンディは少し考えてから首を振った。
「まだ時間があるわ。少し遠回りしていい?」
「いいよ」
「せっかく来たんだもの。村を案内してあげる」
そう言って歩き出したキャンディの足取りは、どこか弾んでいた。
少し歩いたところで、テリィは自然にキャンディの手を取った。
キャンディは一瞬だけ彼を見上げたものの、何も言わず、その手を握り返した。
二人はそのまま、のんびりと村の道を歩いた。
「この道をずっと行くと、小さな学校があるの」
「きみも通った?」
「ううん。私のころはまだ学校が出来ていなかったの。今はポニーの家の子たちは通ってるわ。だから朝寝坊した子を、何度ここまで連れてきたことか」
「きみが?きみが寝坊するんじゃなくて?」
「ちょっと、もうしないわよ!……たまにしか……」
勢いは次第に自信がなくなっていく。そんなキャンディにテリィは楽しそうに笑う。
少し先へ進むと、小さな雑貨店があった。
「あのお店ね、昔からあるのよ。子どもの頃、先生のお使いでよく来たわ」
「何を買いに?」
「小麦粉とか、お砂糖とか、糸とか……あ、そうそう。一度お砂糖を買いに来たのに、帰り道で袋を落として破けちゃったことがあって」
「その先、なんだか分かる」
「なんだと思うの?」
「どうせ拾い集めようとして余計ひどくしたんだろ」
キャンディが黙る。テリィが横を見る。
「……当たり?」
「もう!」
声を上げて笑うテリィにつられ、キャンディも笑った。
しばらく歩くと、今度は小さな橋が見えてきた。
キャンディが指を差す。
「子どもの頃、よく遊んだ川。魚を捕ったり、水に入ったり」
「泳げるのか?きみは」
「泳げるけど、泳ぎ方を習ったわけでないから、オリジナルだけど」
そういってキャンディは肩をすくめる。
ラガン家に奉公していた頃、ニールとイライザの意地悪で湖に落とされたときにその泳ぎで陸に戻れた。けれど、キャンディの泳ぎ方を見て、さらに馬鹿にされ笑われた記憶がふと浮かんだ。
「オリジナル?習ってないのに泳げることはすごいことだ」
テリィの言葉にキャンディははにかむ。
「テリィは泳げるものね」
「もちろん。俺は“まるで魚のようだ”と言われてからな。ま、使用人たちのお世辞だけど」
「でも、かっこよかったわ、あのスコットランドの湖……」
「初めて聞いた。あの時、そう思ってたなんて」
「だって、テリィ……」
キャンディは少し懐かしそうに目を細めた。
「あの時、イライザが湖に落ちて、あなたはすぐに飛び込んだ……なかなかできることではないわ」
「湖だったからだよ。しかも、子どもの頃からよく知ってる場所だ」
「え?」
意外な答えに、キャンディが彼を見る。
「海や川だったら、あんなふうには飛び込まない」
「そうなの?」
「ああ。流れがある場所じゃ、下手に飛び込めば二人とも流される。助けるつもりが、助けられる人間をもう一人増やすだけになるかもしれないだろ」
キャンディは少し驚いたようにテリィを見つめた。
「じゃあ、どうするの?」
「その場によるさ。ロープを探すとか、舟があるなら使うとか。流れや岸までの距離を見て、別の方法を考える」
「……ちゃんと考えてたのね」
「当然さ」
テリィは肩をすくめた。
「あのときは湖で、きみの従兄弟たちのボートも近くにあった。俺は泳げる。だから飛び込んだ。それだけだよ」
あまりにも簡単に言うので、キャンディはしばらく彼の横顔を見つめた。
「でもね、テリィ」
「ん?」
「それでも、すごいと思う」
テリィは少し考えてから答えた。
「目の前で人が溺れてて、自分に助けられるなら助けるだろ」
「そういうところが、カッコよくて素敵だと思ったの」
テリィが一瞬、言葉を失う。キャンディは微笑んだ。
テリィは少し照れくさそうに前を向く。
「……子どもの頃から、そういうことだけはうるさく言われてたからな」
「そういうこと?」
「立場のある人間には、それなりの責任があるってこと」
キャンディが目を瞬いた。テリィは苦笑した。
「グランチェスターの人間なら、弱い者を見捨てるな。困っている人間がいて、自分に助ける力があるなら手を貸せ――耳にたこができるほど聞かされたよ」
「そうだったの……」
「家のしきたりなんて嫌いだったけどな」
そう言いながらも、その教えは確かに彼の中に残っている。
貴族という身分には反発していても、幼い頃から教え込まれた責任まで捨てたわけではなかった。
そしておそらく、それだけではない。もともと彼の中にある優しさと、いざというときに冷静に動ける強さ。
その両方が、あの瞬間のテリィを湖へ飛び込ませたのだ。キャンディは繋いでいた手を少し強く握った。
「やっぱり素敵」
テリィはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「まさか、やつを助けたことを十年以上経ってきみに褒められるとはな」
テリィは繋いだ手を握り返した。
「初めて、あんなやつを助けた甲斐があったと思ったよ」
「もう、そういうこと言う!」
キャンディの声とテリィの笑い声が、村の道に重なった。
そんな話をしながら歩いていると、向こうから籠を抱えた年配の女性がやってきた。
「あら、キャンディ!」
「あっ、こんにちは!」
その瞬間だった。
それまでテリィと繋いでいたキャンディの手が、するりと離れた。
テリィがわずかに眉を上げる。
女性はそんなことには気づかず、嬉しそうに近づいてきた。
「今日はお休みなの?」
「はい。ちょっと散歩を」
女性の視線が、当然のようにテリィへ移る。
一瞬、目を丸くした。
「まあ……」
キャンディは慌てたように言った。
「こちら、テリュースさんです」
「ああ! 例の!」
キャンディの顔が赤くなる。
「マーチン先生のところで聞いたのよ。婚約者が来てるって」
村というのは、どうやらニューヨークよりずっと情報が伝わるのが早いらしい。
女性はテリィを上から下まで眺め、満足そうに頷いた。
「まあまあ。キャンディ、よかったわねえ」
「ありがとうございます……」
「幸せになるのよ」
そう言い残し、女性は何度も振り返りながら去っていった。