その言葉に、キャンディの目から新しい涙が零れた。
前へ進んでもいい。ポニー先生の言葉は、確かにキャンディの心を軽くしていた。
テリィを愛していることを、罪のように思わなくてもいい。スザナを忘れなくても、あの日の自分を否定しなくても、彼と生きる未来を選んでいい。そう思えた。
けれどひとつだけ、まだ心に残っていることがあった。キャンディは涙を拭うと、しばらく俯いていた。
「先生……あのときの私たちは……どうして、あんなふうに別れなければならなかったのでしょう」
ポニー先生は黙ってキャンディを見つめた。
「もし私たちが、結局こうしてもう一度出会って、一緒に生きていくのなら……」
キャンディは胸元のクルスを握った。
「離れていたあの長い時間は、何だったのでしょう」
それは後悔とは少し違っていた。
あの日の決断を間違いだったと言いたいのでもない。ただ、知りたかった。なぜ、あのときではなかったのか。なぜ長い年月が必要だったのか。
ポニー先生はしばらく何も言わなかった。やがて、傍らに置かれていた聖書へ静かに手を伸ばし、頁をゆっくりとめくりながら、穏やかに微笑んだ。
「旧約聖書の『伝道者の書』に、このような言葉があります」
そして、静かに読み始めた。
「『何事にも時があり、天の下の出来事には、すべて定められた時がある――』」
「『生まれる時があり、死ぬ時がある。植える時があり、植えたものを抜く時がある』」
穏やかな声が、静かな礼拝堂に響いていく。
「『泣く時があり、笑う時がある。悲しむ時があり、踊る時がある』」
ポニー先生はそこで聖書を閉じ、キャンディへ微笑みかける。
「きっと、あの頃のあなた方には、まだ歩まなければならない道があったのでしょう」
キャンディの瞳が揺れた。
「あの時は、まだ結ばれる時ではなかったのかもしれませんね」
胸の奥に、あの日の光景が蘇る。あの日から、それぞれに歩いた長い年月。
「でも……先生。私、スザナさんに言ったんです。もうテリィには会わないって」
「そのとき、あなたは嘘をついたのですか?」
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「あのときは、本当に……そうするつもりでした」
「では、それでいいのですよ」
キャンディは顔を上げた。
「あのときのあなたは、あのときのあなたにできる精いっぱいの選択をしたのでしょう」
ポニー先生は、キャンディの手へ自分の手を重ねた。
「人の一生は、ひとつの決断をしたところで止まってしまうものではありません。人も変わります。時も流れます。自分では思いもしなかった出来事が起こることもあります」
キャンディの目に、ゆっくりと涙が滲んでいく。
「そして今、長い時を経て、あなたとテリィさんはもう一度出会った」
その言葉に、キャンディは唇を噛んだ。
「それは、あの日のあなたを裏切ることではありませんし」
涙がひと粒、頬を伝った。
「スザナさんを忘れることでもありません。過去を消さなければ、未来へ進めないわけではないのです」
キャンディは俯いた。涙が膝の上へ落ちる。声が震えた。
「では私は……テリィと幸せになっても、いいんですね」
ポニー先生は、迷わず頷いた。
「もちろんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、キャンディの中で張り詰めていたものが、静かにほどけた。ポニー先生は続ける。
「人生には、早すぎる幸せも、遅すぎる幸せもありません」
キャンディは涙に濡れた顔を上げた。
「すべてには、その時があります」
礼拝堂の蝋燭が、静かに揺れていた。
「あなた方には、今、その時が来たのでしょう」
キャンディは声を上げずに泣いた。
あの日には、あの日の自分がいた。今には、今の自分がいる。
その間に流れた年月も、失ったものも、得たものも、すべて自分の人生だ。
ポニー先生は、泣いているキャンディの背中をゆっくりと撫でた。
「忘れなくてもいいのですよ。スザナさんのことも、あの日のことも。それでも、前へ進んでいいのです」
キャンディは何度も頷いた。
「……はい」
やっと、それだけを答えた。しばらくして、ポニー先生が微笑んだ。
「つらいときは、つらいと言っていいのですよ、キャンディ」
「私……そんなにわかりやすいんですか?」
ポニー先生は小さく笑った。
「あなたは昔から、悲しいことほど胸の奥へしまい込む子ですから」
その言葉に、キャンディは幼い頃の自分を思い出した。泣きたいのに笑っていた日々。寂しいのに平気なふりをしていた夜。その全部を、この人はずっと見ていてくれたのだ。
「ここは、あなたがいつでも帰ってこられる場所ですよ、覚えておいてください」
キャンディの瞳が揺れる。
「たとえ遠くへ行っても、あなたの故郷はここです。つらくなったら、いつでも帰ってきていいですよ」
胸の奥が、また熱くなった。キャンディは首に掛けていた十字架をそっと握る。レイクウッドへ向かう日に、ポニー先生がくれたもの。ずっと自分を支えてくれたもの。
「先生……」
涙声のまま笑うキャンディを見て、ポニー先生もまた静かに微笑んだ。
二人はしばらく、何も言わずに寄り添っていた。やがて、聖母マリア像の前の蝋燭が、ふっと消えた。
細い煙が、白く静かに立ち昇っていく。キャンディは、その煙をぼんやりと見つめた。
胸の中にあった過去が、消えてしまったわけではない。これから先も忘れることはないだろう。けれど、もうそれに縛られなくてもいい。過去を抱えたまま、未来へ歩いていけばいい。そう思えた。
「……そろそろ戻りましょう」
ポニー先生がそう言うと、キャンディは小さく笑った。その笑顔には、まだ涙の跡が残っていた。
けれど礼拝堂へ来たときの、張り詰めた苦しさはもうなかった。ポニー先生はランプを手に取る。
「さあ、レイン先生も心配していますよ」
「レイン先生も?」
ポニー先生はくすりと笑った。
「もちろんです。あなたは隠しているつもりでも、私たちにはわかりますからね」
キャンディは照れたように肩をすくめた。
「そんなにわかりやすいんだ、私って」
「ええ、とても」
その返事に、思わず二人とも笑ってしまう。
静かな礼拝堂に、小さな笑い声がやさしく響いた。
二人は並んで、ポニーの家への道をゆっくり歩く。
遠くで風が木々を揺らしている。やがて暗闇の向こうに、ポニーの家の窓が見えてきた。あたたかな灯りがともっている。
その光を見た瞬間、キャンディの胸がじんわりと熱くなった。
――ここは私が帰る場所。
ポニー先生が言った言葉が、静かに胸へ広がっていく。
ニューヨークへ行けば、自分の人生は大きく変わる。テリィと共に生きる未来。それはもう、迷うものではなかった。心から望んでいる未来だから。
けれど同時に、ここを離れる寂しさも確かにある。
それでも、帰ってこられる場所がある。
そう思うだけで、不思議なくらい心が軽くなった。