七月も半ばを迎えたシカゴは、強い陽射しの中に夏の気配を濃くしていた。
街路樹の葉は深い緑に染まり、石造りの建物の壁には、午後の光が白く反射している。
行き交う馬車や自動車の音、人々の話し声。大きな街の喧騒が絶え間なく続いていた。
テリィにとって、シカゴは初めて訪れる街ではなく、劇団の地方公演で、これまでにも何度か滞在している。
それに私的にはつい数ヶ月前にキャンディとシカゴで会った。
テリィは数日前、シカゴで借りた自動車を走らせ、インディアナのポニーの家へ向かった。
ポニー先生とレイン先生へ、キャンディとの婚約を直接報告するためだった。
短い滞在ではあったが、幼い子どもたちに囲まれ、キャンディが育った場所で過ごした時間は、テリィにとって想像していた以上に大きな意味を持っていた。
キャンディが何を大切にしてきたのか。
どのような人々に愛され、どのような景色の中で育ってきたのか。
その一つひとつを、自分の目で見ることができた。
そして今、テリィは再び同じ車を運転し、シカゴへ戻ってきていた。
次に向かう場所は、シカゴ郊外にあるアードレー家の本宅だった。
街の中心部を抜ける。見覚えのある通りもあった。
以前、劇団の仲間たちと歩いた大通り。公演のポスターが貼られていた劇場街。滞在したことのあるホテルの近くも通った。
以前キャンディが住んでいた街、そしてキャンディが養女となったアードレー家がある街。
今日はやけに目につくのがあった。それは、銀行の建物や倉庫。ホテルに病院や慈善施設、企業の看板などそこに刻まれた名や紋章だ。
一度意識してしまうと、驚くほどあちこちにその痕跡があった。
テリィはハンドルを握ったまま、窓の外へ視線を向けた。
「……こんなにあったのか」
思わず独り言が漏れる。
もちろん、アードレー家がアメリカでも有数の資産家であることは、イギリスにいた頃から知っていた。
こうして改めて街を走ってみると、その影響力は想像をはるかに超えている。
一つの家が、これほど大きな街の中へ根を張っている。それは一族の富を誇示するためだけのものではなかった。
シカゴという街の発展そのものに、アードレー家が深く関わってきたことを示す印のようでもあった。
そして、その一族の総長がアルバートだという。
今でも、どこか不思議だった。ロンドンの夜の街で出会った頃のアルバートは、どこにも属していない人に見えた。
身なりは簡素で、肩書きを語ることもなかった。動物を愛し、世界各地を旅し、自由に生きていた。
テリィにとってアルバートは、自分が知る誰よりも束縛から遠い人間だった。
公爵家の名を背負いながら生きていた当時のテリィには、その自由が眩しかった。本気で弟子になりたいと思ったほどだ。
そんなアルバートが、まさかこれほど巨大な一族を率いる立場だったとは。しかも、キャンディの養父でもある。
事情を聞いたあとでさえ、すべてが完全には結びつかなかった。だが、これから会えば分かるのだろうか。
十年以上という時間が、アルバートをどのように変えたのか。そして自分自身も、彼の目にどのように映るのか。
街の中心部を離れるにつれ、次第に建物の間隔が広がっていく。
高層の商業建築や劇場、百貨店が並ぶ市街地から、やがて車は緑の多い郊外へ入った。
整然とした道路、広い庭を持つ邸宅、高く伸びた街路樹。その一帯には、街の中心部とは異なる静けさと、落ち着いた威厳が漂っていた。
テリィは無意識にハンドルを握る手へ力を込めた。
舞台なら、どれほど大きな劇場でも怖くはない。
何千人の観客が待っていようと、幕が上がれば自分のすることは分かっている。
だが、今日は違う。これから会うのは、キャンディの養父だ。しかも相手は、若い頃から自分が尊敬してきた人でもある。
ポニー先生たちへの挨拶とは、また違う緊張があった。どの顔で会えばいいのか、自分でも分からない。
やがて前方に、長く続く石塀が見えてきた。塀の向こうには、深い緑の木々が広がっている。さらに進むと、大きな鉄門が現れた。
門柱の上には、先ほどから街のあちこちで目にしてきたアードレー家の紋章。
テリィは車の速度を落とした。
門の奥には、まっすぐに伸びる広い私道が続いていた。その先に見える建物は、まだ一部しか見えない。
門の脇には詰所があり、制服姿の門番が立っている。車を停めると、門番がすぐに近づいてきた。
「ご用件を伺います」
礼儀正しい口調だった。テリィは車から降り、帽子を取る。
「テリュース・グレアムです。ウィリアム・アードレー氏と約束があります」
門番の表情がわずかに変わった。名を確認するように、一瞬だけテリィを見る。
キャンディが事前にアルバートへ連絡を取り、訪問の日時を伝えてくれてはいた。
「お待ちしておりました」
門番はすぐに頭を下げた。
「ただいまお知らせいたします」
詰所へ戻り、内部へ連絡を取る。それほど待たないうちに、門の向こうから一人の男性が姿を現した。
背筋を真っ直ぐに伸ばした、落ち着いた雰囲気の紳士だった。年齢はアルバートより随分上だろうか。
仕立てのよい濃色のスーツを身にまとい、動作には無駄がない。その姿を見た瞬間、テリィは気づいた。サウザンプトン港へ向かう客船で、キャンディの傍らに控えていた人物だった。
門が開く。ジョルジュは外へ出ると、テリィの前で静かに一礼した。
「お久しゅうございます、グランチェスター様」
その呼び方に、テリィは一瞬だけ動きを止めた。
グランチェスター。長い間、ほとんど聞くことのなくなった名だった。
「お久しぶりです。すみません、お名前を伺っていませんでした」
テリィは穏やかに尋ねた。
「ジョルジュ・ヴィレルと申します。“ジョルジュ”とお呼びください」
「本日はよろしくお願いします、ジョルジュさん。それから……私は今はグレアムと名乗っていますので」
「承知しております」
ジョルジュの表情は変わらない。
「ですが、私にとっては、どちらのお名前もあなたさまでございます」
その言葉に、テリィはわずかに目を細めた。
グランチェスターという名を捨ててニューヨークへ渡ってきた。若い頃なら、その名で呼ばれただけで反発していたかもしれない。だが、今となっては、それも自分の過去の一部だった。
受け入れることと、縛られることは違う。そう思えるほどには、自分も年を重ねた。
「ウィリアム様のところへご案内いたします」
ジョルジュが門の奥を示す。
「お車のまま、どうぞ中へ」
テリィは再び運転席へ乗り込んだ。
ジョルジュは助手席へ座り、門番が鉄門を大きく開き、車はゆっくりと敷地の中へ入った。
門から本宅までは、想像していた以上に距離があった。両側には、丁寧に手入れされた芝生と、大きな樹木が並んでいる。
花壇には夏の花が咲き、遠くには噴水も見えた。私道は緩やかに曲がりながら、敷地の奥へ続いている。途中には厩舎らしき建物や、使用人のための別棟も見えた。
その規模は、単なる邸宅というより一つの小さな領地に近い。
グランチェスター家の屋敷を知らなければ、圧倒されていたかもしれない。
だが、テリィに驚きがなかったわけではない。
英国の古い貴族の館とは、趣がまったく違う。グランチェスター家の屋敷にあるのが、何代にもわたって積み重ねられてきた歴史の重さだとすれば、ここにあるのは、新しい大陸で自ら築き上げてきた力と繁栄だった。似ているようで、まるで違う。
テリィは窓の向こうへ広がる景色を見ながら、改めて思った。ここが、キャンディのもう一つの家なのだ。ポニーの家とは、あまりにも違う。どちらも彼女の人生を形作ってきた場所だった。
やがて木々の向こうから、本宅の全景が現れた。
淡い灰色の石造り。左右へ大きく翼を広げるような建物。正面には高い列柱が並び、中央には広い階段がある。威厳がありながら、過度な装飾に頼らない端正な造りだった。
玄関前へ車を停めると、すでに使用人が待機していた。テリィが降りると、すぐに車を預かる者が進み出る。
「どうぞこちらへ」
ジョルジュに促され、正面階段を上った。
大きな扉が開く。
中へ入った瞬間、外の暑さが遠ざかった。