夕食を終える頃には、時計の針はずいぶん遅い時刻を指していた。
テリィはシャワーを浴びるため浴室へ向かった。やがて浴室の扉が閉まり、しばらくすると水音が聞こえてきた。
キャンディは食器を洗い終えると、バルコニーへ続く窓を開けた。
夜風が頬を撫でる。昼間の熱気を残した街も、この時間になると少しだけ静かだった。
それでもニューヨークは眠らない。遠くにはいくつもの明かりが瞬き、下の通りを走る車の音が時折聞こえてくる。
キャンディはバルコニーに出て、手すりに両手を置き、夜の街を見下ろす。
今日の夕食のとき、ロミオの話にもなった。
――ずいぶん相手役の人を熱っぽく見つめてたわね。
そう言った自分を思い出し、キャンディは小さく笑った。
テリィにはすぐに、
――妬いた?
とからかわれた。
もちろん、本気で嫉妬したわけではない。
テリィは俳優なのだから、恋する男を演じれば、本当にその女性を愛しているように見えなければならない。それくらい分かっている。むしろ、あの眼差しを作れることに驚いたのだ。
今回の演目は、劇団の名物でもあるシェイクスピア作品の名場面を繋いだものだ。その中で『ロミオとジュリエット』の場面は、思っていたより短かった。その理由もテリィが教えてくれた。
今秋、『ロミオとジュリエット』を上演すること、そしてそれはSMTでロミオを演じたテリィに、ニューヨークでも演じて欲しいと多くの反響に答えるものだった。
本格的な稽古は、今の公演が千穐楽を迎え、しばしの休暇のあとから始まるのだという。
だから今回のシェイクスピア集では、あえて『ロミオとジュリエット』の場面を多く使わなかった。
これから一つの作品として観客へ届けるものを、その前に見せすぎないため。
とはいえ、シェイクスピアの名場面を集めた舞台に、もっとも有名な悲恋の物語が一場面もないのも不自然だ。だから、ごく短い場面だけが組み込まれている。
そんな説明をしながら、テリィは何でもないことのようにスープを飲んでいた。
キャンディも、そのときは何でもないことのように聞いていた。
けれど今、一人で夜風に当たっていると、別の記憶が静かに浮かび上がってきた。
『ロミオとジュリエット』は、テリィにとって、特別な作品。初めて大きな主演を掴んだ演目でもある。
そして九年前、その初日に、自分を招待してくれた舞台。
あの頃、二人はまだ10代だった。テリィが俳優として歩き始め、自分はようやく看護婦になったころだ。
ずっと昔のことのようでもあり、ほんの昨日のことのようでもある。
けれど、その初日の幕が上がる前に、すべてを変えてしまった出来事が起きた。
スザナの事故……
キャンディの表情から、ゆっくり笑みが消えた。
今日の舞台が蘇る。ロミオを演じていたテリィ。
相手役を見つめる青灰色の瞳は、恋する男そのものだった。
あの目で、あの頃のテリィも、ジュリエットを見つめていたのだろうか。
ならばスザナは。稽古の中で何度、あの眼差しを受け止めたのだろう。
キャンディは夜の街へ視線を落とした。
もちろん、スザナだって女優だ。分かっていたはずだ。
ロミオがジュリエットを見る眼差しと、テリィが一人の女性を見る眼差しは違うということを。
それでも、好きな人からあんなふうに見つめられたら、たとえ芝居だと分かっていても、どんな気持ちになるのだろう。
ふと、そんなことを考えた。
そして今日、夕食の席で自分がロミオの話をしても、テリィは何も気にしていなかった。
顔を曇らせること、話題を変えることもなかった。
――妬いた?
と笑って自分をからかった。
そのことが、キャンディにはなぜかありがたかった。
『ロミオとジュリエット』という言葉には、あまりにも多くの痛みが結びついていた。
テリィにとっても、自分にとっても。そしてスザナにとっても。
時間が過去を消したわけでも、忘れたわけでもないことは確かだった。
キャンディは今日の稽古を思い返した。
同じ台詞を何度も繰り返し、立つ位置を変え、演出家の指示を聞き、また最初からやり直す。
衣装を合わせ、相手役と呼吸を合わせる。
たった数分の場面のために、何時間も費やす。
今日初めて、その積み重ねを目の当たりにした。
だからこそ思う。スザナも、きっとそうだった。どれほど稽古したのだろう。
どれほどの時間の積み重ねで、ジュリエットを作り上げたのだろう。
初日の幕が上がる瞬間を、どれほど楽しみにしていたのだろう。
なのに、一度も立てなかった。
ジュリエットとして、舞台の上へ。
キャンディは小さく息を吐いた。
無念だっただろう。
それは、テリィへの想いとは別のこと。
一人の女優として、舞台に立つことを夢見て、努力を重ねてきた人間として、どれほど悔しかっただろう。
今日の稽古を見たからこそ、その重さが少しだけ分かった気がした。
夜風が吹く。キャンディは無意識に自分の腕を抱いた。
少し寒い。けれど、もう少しだけここにいたかった。
そのときだった。背後で窓が開く音がした。
「キャンディ?」
振り返るより早く、背中から腕が回ってきた。
「……テリィ」
シャワーを終えたばかりのテリィだった。
まだ少し湿った栗色の髪に清潔な石鹸の香り。
キャンディの身体を後ろから包むように抱きしめる。
「何してるんだ?」
「ちょっと夜風に当たってたの」
「ちょっと?」
テリィの手がキャンディの腕へ触れる。そして眉を寄せた。
「冷たいじゃないか」
「そう?」
「そう? じゃない」
抱きしめる腕に少し力が入る。
「いつからここにいたんだよ」
「そんなに長くないわ」
「嘘つけ」
テリィはキャンディの頬へ触れた。ひんやりしている。明らかに今出てきたばかりではない。
「中へ入るぞ」
「でも気持ちいいわよ」
「駄目」
「テリィ」
「風邪ひいたらどうするんだ」
有無を言わせない。
テリィはキャンディの肩を抱いたまま、リビングへ連れ戻した。