時計の針が9時を回ってしばらくした頃、ようやく玄関の鍵が回った。
「ただいま……」
聞こえてきた声に、キッチンにいたキャンディがすぐに顔を上げる。
「おかえり、テリィ!」
ぱたぱたと玄関へ向かうと、テリィはコートを脱ぎながら、いかにも疲れたという顔で立っていた。
「遅くなったね」
「ゲネプロ近いといつもこんな感じだよ」
テリィは苦笑しながらコートを掛けると、ふわりと温かな香りが漂ってきた。
「いい匂いだな……もしかしてこの匂い」
キャンディとキッチンへ向かう。キャンディが笑う。
「オニオンスープ?」
「そう。正解」
キャンディはうれしそうに、鍋の蓋を開けた。
「昨日は、私のリクエストに応えてくれたでしょ?だから今日は、私もテリィのリクエストに応えてみたの」
テリィはうれしそうに笑ったものの、ふと何かに気づいたように表情を変えた。
「……でも、困ったな」
「え? なにが?」
「きみがリクエストに応えちゃったから、ここへ来る理由が一つなくなった」
キャンディは一瞬きょとんとする。けれど、すぐにくすっと笑うと、テリィのところまで歩み寄り、その胸へぎゅっと抱きつく。
テリィがキャンディを見下ろす。キャンディは少し照れながら顔を上げた。
「“会いたい”っていう理由で来ちゃだめ?」
「……」
テリィは言葉を失った。
そんなことを、そんな顔で言うな。抱きしめたくなるに決まっている。
けれど、あまりにも真っすぐな言葉に、不意を突かれたテリィの方が照れてしまった。
「……きみは」
誤魔化すように両手を伸ばすと、キャンディの頬を左右から挟む。
むぎゅっ。
「んむっ!」
「そんな可愛いこと言うと――」
さらに、むぎゅーっとする。
「もう帰さないぞー」
「て、テリィ……!」
ようやく頬を解放されたキャンディは、両手で頬を押さえながら笑った。
「それは困るー!」
口ではそう言いながら、ちっとも困っている顔ではなく、むしろうれしそうだった。
テリィも堪えきれず笑う。
本当は、ただ抱きしめたかった。けれど、少し照れくさくて、代わりにもう一度、キャンディの頬へ手を伸ばす。
「もう一回」
「やだー!」
キャンディは笑いながら逃げようとする。
「こら、待て」
「テリィ!スープ冷めちゃう!」
「きみが逃げるからだろ」
「テリィが追いかけるからでしょ!」
一日中張り詰めた稽古場にいたことなど忘れてしまいそうなほど、キッチンには二人の笑い声が響いていた。
そしてテーブルの上では、せっかくのオニオンスープから湯気が立ちのぼっている。
二人はようやく遅い夕食の席についた。
食卓には、玉ねぎをじっくり煮込んだ温かなスープとサラダ、パン。それに少しだけハムとチーズ。
二人で向かい合って座る。テリィがスープを一口飲んだ。
「ん……うまい」
その様子を見て、キャンディは満足そうに笑った。ところが。
「ねえ、テリィ!」
突然、身を乗り出す。
「今日の稽古、本当にすごかった!」
テリィはスプーンを持ったまま顔を上げた。
そこからだった。キャンディの話が止まらなくなった。
「最初のハムレット! あれ、まだ衣装もちゃんと着てなかったでしょう? なのに舞台に出た途端、本当に別人みたいだった!」
「そう?」
「そうよ! それから何度も同じところをやり直してたでしょう? 私、舞台ってもっと最初から最後まで通して稽古するものだと思ってたの」
「通す日もあるよ」
「でも今日は、ほんの少しのところを何度もやってた!」
テリィはパンをちぎりながら聞いている。
「それに早着替え!あれ、どうなってるの? 舞台袖へ入ったと思ったら、すぐ違う格好で出てきたでしょう?」
「衣装係が待ってるんだよ」
「そうだとしても、あっという間だったわ」
「慣れだよ」
あっさり答えるテリィに、キャンディはますます感心したような顔になる。
「それからね――」
テリィはとうとう笑った。
「キャンディ」
「なに?」
「スープ冷めるぞ」
「あっ」
キャンディはようやく自分の皿を見る。ほとんど減っていない。テリィはもう半分ほど食べ終わっていた。
「だって……」
キャンディはスプーンを手にしながら、それでもうれしそうだった。
「本当に面白かったんだもの」
「そうみたいだな」
「私、あんなふうに稽古してるなんて知らなかった」
ようやくスープを口へ運ぶ。だが数秒後には、また顔を上げる。
しばらくして、キャンディの声が少し穏やかになった。
「本当に、見られてよかった」
テリィが顔を上げる。キャンディは少し考える。
「舞台って……簡単にできるんじゃないのね」
テリィは黙っている。
「何度も繰り返して、直して、またやって。それでも駄目なら、また最初からやって……」
今日見た光景を思い出す。
「だから、あんな舞台になるんだね」
テリィは少しだけ目を伏せた。褒められることには慣れている。
新聞にも書かれ、評論家にも評価され、観客から喝采を浴びることもある。けれどキャンディからそう言われることには、どうにも慣れそうになかった。
「……まあ、それが仕事だからな」
照れ隠しのようにパンを口へ運ぶ。
キャンディはそんな彼を見て笑った。