向こうから、舞台上の声が響いてくる。その瞬間、キャンディの足が止まった。
聞き間違えるはずがない、テリィの声だった。いつもの声とはまるで違う。低く、よく通り、空間全体を支配するような声。
フランクが扉へ手を掛ける。
「ここから先は、彼を“テリィ”とは呼ばない方がいいです」
キャンディははっとする。
「……はい、分かりました」
扉が開いたその瞬間、まったく別の世界が広がった。舞台の上には簡素な装置しかなく、本番用の大道具はまだすべて整っていないらしく、床には位置を示す印が貼られている。
照明も完成形ではない。衣装を着ていない俳優もいる。スタッフが舞台袖を行き交い、演出家が客席中央から指示を飛ばしている。
今回の演目は、劇団が長年続けてきた名物公演。シェイクスピアの代表的な場面を一つの舞台へ繋いでいく構成だった。
悲劇、喜劇、歴史劇、作品ごとに時代も人物もまるで違う。一人の俳優がいくつもの役を演じることもあり、演技力だけでなく転換の速さまで求められる。そして今回、その中心を担っているのがテリュース・グレアムだった。
キャンディが舞台を見たとき、テリィはちょうどハムレットの場面にいた。黒い稽古着で衣装ではない。それなのに立ち姿だけで、キャンディには王子に見えた。
さっきまで、ほんの数時間前まで。自分をシーツで包んで、笑っていた人と同じ人物とは、とても思えない。
キャンディは思わず口元を押さえた。フランクが横で小声を落とす。
「驚きました?」
キャンディは舞台から目を離せないまま頷いた。
「……はい」
フランクはわずかに笑う。
舞台では場面が終わった。演出家の声が飛ぶ。
「もう一度!」
テリィは黙って元の位置へ戻る。何が悪かったのか、言われる前から分かっているようだった。
もう一度、そしてもう一度。たった数十秒の場面を何度も繰り返す。
キャンディは初めて知った。完成された舞台の裏に、これほど細かな積み重ねがあることを。
一つの動作、一つの視線、わずかな沈黙。そのすべてを何度も作り直していた。
やがて合図が入り、場面転換になると、テリィは舞台袖へ消えた。
だが数分もしないうちに別の衣装の一部を身につけて出てきた。
キャンディは目を丸くする。
「早い……」
フランクが小さく笑った。
「今日はまだ遅い方ですよ」
「これで?」
「本番はもっと短い間です」
次はロミオだった。
さきほどの暗い瞳が、まるで別人のように変わる。若く、情熱的で、恋にすべてを賭ける男。
キャンディは思わず息を呑んだ。
ロミオが相手役を見つめるその眼差し、その声。
分かっている、これは芝居だ。それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
相手役の女優がロミオへ近づき、テリィがその手を取る。
キャンディの眉がほんの少し動いた。そのとき、舞台上のテリィの視線が、ほんの一瞬だけ客席へ流れた。
キャンディは息を止める。目が合った……ような気がした。
しかし次の瞬間には、もうロミオの顔へ戻っている。何事もなかったように台詞を続けている。
フランクが隣でぼそりと言った。
「今、こちらを見ましたね」
「えっ」
「あなたを見ました」
「そ、そうですか?」
フランクは腕を組んだ。
「芝居は一流でも、こういうことは下手ですね」
あまりに真面目に言うので、思わず吹き出しそうになり、キャンディは慌てて口を押さえた。
一度舞台袖へ消えたと思えば、別の人物として戻ってくる。
髪を整える間もないほどの早着替え。上着を脱ぎながら走り込み、衣装係が待つ場所で次の衣装へ着替え、そのまま台詞を確認しながら再び舞台へ戻る。
息を整える暇さえない。
キャンディは圧倒されていた。
彼は人気俳優、新聞や雑誌にはそう書かれている。
舞台に立てば観客は彼を見る。けれど今、キャンディが見ているのは、華やかな呼び名の裏側だった。
誰よりも早く立ち位置へ戻り、演出家の指摘へ言い訳をしない。
後輩の動きが遅れれば、自分の台詞を止めて合わせる。
大道具の移動が間に合わなければ、位置を変えて対応する。
衣装の留め具が外れれば、自分で直してすぐ舞台へ戻る。
そして何度やり直しても、疲れた顔を見せない。
キャンディは気づけば、ただじっと彼を見つめていた。
学院時代。夢を持ちながらも、自分の居場所を見つけられずにいた少年。
あの頃のテリィが、今ここにいる。
何度も傷つき、舞台から離れかけた過去、それでも戻ってきた場所。
テリィが自分の力で選び、自分の力で築いた世界。
その中心に、彼は立っている。
胸の奥が熱くなった。
フランクが隣から静かに言った。
「彼は、あなたにここを見せたかったんでしょうね」
キャンディが振り向く。
「……え?」
「普段なら、こういうことはしない男です」
「そうなんですか?」
「家族でも友人でも、稽古場へ連れてくるようなタイプじゃない」
フランクは舞台へ目を向けたまま続けた。
「舞台は舞台。私生活は私生活。きっちり分けている」
キャンディは黙った。
「だから最初、あなたを入れたいと言われたとき、少し驚きました」
「……」
「でも、今なら分かります」
フランクは静かに笑った。
「見てほしかったんでしょう」
キャンディはもう一度舞台へ顔を向ける。
テリィは次の場面へ移るところだった。
スタッフに何か言われ、短く頷く。
横顔には厳しい集中がある。
そこに昨夜の優しい恋人の面影はほとんどない。
それでも。
キャンディには分かった。
どちらもテリィなのだ。
自分へ愛していると囁く男も。
舞台の上で何百人もの観客を惹きつける俳優も。
全部が、テリィ。
そして今。
その世界を自分へ見せようとしてくれた。
それが何より嬉しかった。