先ほどまで笑い声のあった部屋には、今は穏やかな静けさが戻っている。
キャンディは白いシーツを胸元まで引き上げたまま、ベッドの上からテリィを見つめていた。
ローブを羽織ったテリィは、鏡の前で髪を整えている。
ほんの少し前まで、あんなに無防備な姿で笑っていた人とは思えないほど、すでに表情が変わり始めていた。
今日は稽古の日、本番を目前に控え、ゲネプロまであと数日、劇団全体が最も張り詰める時期に入っていた。一つの場面、一つの立ち位置、一つの台詞の間、すべてを最後まで磨き上げる時期だった。
主演であるテリィは、長期の休みなど取れるはずもなく、今回はキャンディにここへ来てもらった。だからといって、そういう理由で稽古を休むこともできるはずがない。それはキャンディにもよく分かっていた。
だから今回、ニューヨークへ来ることを決めたときから、彼女はテリィが仕事へ行っているあいだ、一人で過ごすつもりでいた。
街を歩いても、本を読んでいても、部屋で待っていてもいい。
テリィと同じ街にいて、夜になれば帰ってくる、それだけで充分だった。
ところが、ニューヨークに来る直前にテリィから届いた手紙には、思いもしなかったことが書かれていた。
――稽古を見に来ないか。
その一文を読んだとき、キャンディは思わず手紙を二度見した。
劇団の稽古場へ?しかもその日は本番直前である。
関係者でもない自分が簡単に入れる場所ではないことくらい、キャンディにも想像がついた。
だが、その下には続きがあった。
――少し細工をする。
――詳しいことは、こっちへ来てから話す。
キャンディはその文章を何度読み返しても、意味が分からなかった。
「ねえ、テリィ」
ベッドから声をかける。
「ん?」
鏡越しに青灰色の瞳が向けられる。
「本当に大丈夫なの?」
「何が」
「今日のことよ」
テリィはネクタイを手に取りながら、わずかに口元を上げた。
「今さら怖くなったか?」
「そうじゃないわ」
「だったら大丈夫だ」
「そうことじゃなくて……」
キャンディは少し声を落とす。
「私なんかが稽古場に入って、本当に問題にならないの?」
テリィは鏡から離れ、笑った。
「心配するな。勝手に忍び込ませるわけじゃない」
彼はテーブルの上に置いてあった一枚の名刺を取り、ベッドの方へ歩いてくる。そしてキャンディの前へ差し出した。
そこには、見慣れない名前が印刷されていた。
フランク・エルドリッジ。
その下には劇団名と、管理部門を示す肩書きが記されている。
「フランク?……さん?」
「彼は、俺のマネージャー」
キャンディは目を瞬いた。
「テリィ、マネージャーなんていたの?」
「いるよ」
「初めて聞いたわ」
「必要なことがないから話さなかっただけだよ」
あまりにテリィらしい返答だった。
キャンディは呆れたように笑う。
「マネージャーなのに、必要なことがないって……」
「俺の荷物を持たせるくらいなら、自分で持った方が早いし」
「そういうところよ」
「何が」
「なんでも一人でやっちゃうところ」
テリィは肩を竦めた。
「昔からだから仕方ない」
それはキャンディもよく知っていた。
彼は人に頼ることが苦手なのだ。
助けが必要でも、頼る前に自分で何とかしようとする。
学院にいた頃から、ずっとそうだった。
「フランクとは三年以上の付き合いになるかな」
テリィは続けた。
「元々この劇団にいた俳優でね。舞台のことも、俳優のこともよく分かってる」
「俳優だったの?」
「ああ。もう表には立たないけど」
テリィは少し考えるように名刺へ視線を落とした。
「年は俺より十以上上。口が固くて、余計なことを喋らない。それに……」
そこで少し笑う。
「俺がもっと仕事を頼まないことが不満らしい」
キャンディも笑った。
「そうでしょうね」
「何だよ」
「だってマネージャーさんでしょう? 仕事を頼ってもらえなかったら困るじゃない」
「十分働いてくれてるが」
「何をしてもらってるの?」
「衣装や荷物の管理。取材の予定。記者会見のときに記者を近づけすぎないようにしたり」
「それって、ほとんど護衛じゃない」
「まあ、半分はそうだな」
キャンディは名刺を見つめた。
だが、ふと気づく。
「でも……どうして、その人に私のことを?」
テリィの表情が少し変わった。
からかうような色が消え、静かなものになる。
「必要だと思ったから」
「必要?」
テリィはベッドの縁へ腰掛けた。
昨夜と同じ距離なのに、今は仕事へ向かう男の顔をしている。
「きみが来るって決まったとき、考えたんだ」
キャンディは黙って聞いていた。
「これから先、俺たちが一緒にいるなら、ずっと知られないままでいられるわけじゃない」
その言葉に、キャンディの胸が小さく鳴る。
昨夜、何度も交わした愛の言葉、そしてプロポーズ。
もう二人は、一時の再会を喜ぶだけの関係ではなかった。未来へ進もうとしている。