婚約してから数日後。

稽古を終えたテリィは、マンハッタンの法律事務所を訪れていた。古い煉瓦造りの建物の二階。ここへ来るのは、初めてではない。

あの日、テリィはロンドンから忽然と姿を消した。それはキャンディを学院に残すためだった。

二人は罠にはめられたが、キャンディだけが退学になる可能性があった。

アードレー家の養女としてロンドンへ留学していた彼女にとって、学院を追われることは、単に学校を辞めるというだけでは済まない。

自分が退学になる代わりに、キャンディを残してほしい。そのために、テリィは自分が姿を消す道を選んだ。

もともと、いつかは家を出るつもりだった。俳優になりたかったし、グランチェスターという名前に守られ、決められた人生を歩くことも望んでいなかった。

ただ、その時期が早まった。キャンディを守るために。そうしてテリィは、グランチェスターの名を捨てた。

――少なくとも、その時の彼はそう思っていた。

けれど、ニューヨークで一人で生きていくうちに知った。家を出ることと、自分が誰の子として生まれたかという事実を消すことは、同じではない。

自分はニューヨークで生まれた。父はリチャード・グランチェスター。母はエレノア・ベーカー。二人は結婚していなかった。

幼い頃は母のもとで育ち、その後、父に引き取られて英国へ渡り、グランチェスター家で育ち、その名を使い、貴族の子息として教育を受けた。

それは、テリィが家を出たからといって消えてなくなるものではなかった。

公爵家の庇護を受けることをやめることはできる。父の財産に頼らず、自分で働いて生きることもできる。俳優として別の名を使うこともできる。けれど、出生そのものを書き換えることはできない。

成人してから、テリィは一度それらをきちんと調べていた。俳優として契約を交わすようになり、海外公演のために大西洋を渡るようになれば、正式な身分を証明しなければならないこともある。

いつまでも少年のように、

――俺はもうグランチェスターとは関係ない。

それだけでは生きていけなかった。だから、自分がどのように記録されているのかも、父との法的な関係も確認していた。

結果は、ある意味では単純だった。自分が家を出たという事実と、リチャード・グランチェスターの息子として生まれた事実は別のものだった。

父との関係を断つ法的な手続きをしたわけでもない。グランチェスター家の財産を受け取って暮らしているわけでもない。ただ、自分の力で生きる道を選んだ。それだけだった。

以来、そのことを意識することはほとんどなくなっていた。俳優テリュース・グレアム。それが今の自分だったからだ。

ところが今、十年近く触れずにいた過去を、もう一度確かめなければならない理由ができた。それは結婚するからだ。

「ご婚約されたのですね」

長く付き合いのある弁護士が、書類を机へ置きながら言った。

「はい」

テリィは答え、少し照れたように笑った。

婚約……その言葉を他人から聞くと、不思議な気持ちになる。

キャンディが自分の妻になる。何度考えても、胸の奥が温かくなった。

「それで今日は、結婚する前に確認しておきたいことがあって来ました」

「どのようなことでしょう」

「以前、私の身分について調べてもらいました」

「ええ。覚えています」

テリィは頷いた。

「あのときは私一人のことでした。でも今度は彼女がいます。私の出生や、英国の家との関係で、彼女に何か不都合が生じることはありませんか」

弁護士は書類へ目を落とした。

「結婚そのものに問題はありません」

テリィの表情がわずかに緩む。

「あなたがグランチェスター家を離れて生活していることと、あなたの出生記録は別のものです。家を出たからといって、父親が誰であるか、母親が誰であるかという記録が消えるわけではありません」

「そこは以前聞いた通りですね」

「ええ。あなたは長年、ご実家から経済的にも生活上も独立しています。ただし、それによって出生そのものが変わったわけではありません」

テリィは静かに頷いた。

分かっていたことだった。けれど、キャンディとの結婚を前に改めて聞くと、以前とは違う重みを持って聞こえた。

「婚姻許可を申請する際には、あなた自身について記載する事項があります」

書類の上を指が滑る。出生地、年齢、住所、職業、父親や母親。そこでテリィの視線が止まった。

「母の名前も書くんですね」

「ええ。そういうことになります」

エレノア・ベーカー。世界的な女優として知られるその名前が、自分の母親として記録される。それ自体に迷いはなかった。事実なのだから。

ただ――。

「その記録が、世間に知られることは?」

「婚姻手続きのための記録です。新聞へ発表するためのものではありません」

テリィは小さく息をついた。

「それなら安心しました」

母との関係を恥じているわけではない。むしろ今では、母が自分を愛していたことも知っている。

けれど、それを公表するかどうかは、自分一人で決めていいことではなかった。

エレノアにはエレノアの人生がある。長い年月をかけて築いてきた女優としての人生が。その秘密は、これからも守るつもりだった。

「婚約者の方は、お母様のことをご存じですか」

その問いに、テリィの表情が柔らかくなった。

「知ってます」

父のことも。母のことも。自分がどんな家で育ったのかも。あの日、なぜ何も告げずにロンドンを去ったのかも。キャンディはすべて知っている。

「聞いてもいいですか」

「もちろんです」

「私と結婚することで、彼女がグランチェスター家に対して何か義務を負うことは?」

弁護士は首を横へ振った。

「あなたとニューヨークで婚姻することと、英国のご実家との関係は別に考えてよいでしょう。少なくとも、結婚したというだけで奥様が公爵家の意向に従わなければならなくなるようなことはありません」

テリィは静かに頷き、その答えに、心から安堵した。

自分はグランチェスターという名前から離れることで、自分自身の人生を選んだ。その人生にキャンディを迎える。

「結婚の日取りが決まりましたら、改めて必要な手続きを進めましょう」

「はい。ありがとうございます」

事務所を出ると、夕暮れのニューヨークには人が溢れていた。テリィはコートのポケットへ手を入れ、ゆっくり歩き始める。

この街へ来たとき、自分には何もなかった。父の家を離れ、母のもとへ戻ることもしなかった。俳優として成功できる保証もなかった。

ただ一つ分かっていたのは、キャンディを守りたかったということだけだった。

あのときは、自分が学院からいなくなることが、彼女を守る方法だと思っていた。

それから十年の年月が過ぎた。

グランチェスターという家に頼らず、自分の足でここまで歩いてきた。

それでも、自分がリチャードとエレノアの間に生まれた人間であることまで捨てる必要はなかったのだと、今なら分かる。

過去を消さなくても、自分の人生は選べる。

そして今、その人生をキャンディと生きていこうとしている。

彼女と生きていくために、自分にできることを一つずつ整えている。

あの日、一人で歩き始めたニューヨークの街。

同じ街を、二十八歳になったテリィは静かに歩いていた。

今度は、その先にキャンディのいる未来を思い描きながら。