列車がニューヨークを離れてから、どれくらい経ったのだろう。キャンディは窓辺に頬杖をつき、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。建物が少しずつ低くなり、やがて街並みも遠ざかっていく。
駅のホームで最後まで手を振ってくれた姿が、まだ瞼の裏に残っている。
左手を膝の上へ置く。薬指には指輪があった。窓から差し込む光を受けて、小さく輝いている。
キャンディはそっと指先で触れた。
――婚約したのね、私たち。
そう思うだけで胸がいっぱいになる。
何度も名前を呼ばれたこと。
「愛してる」と言ってくれたこと。
そして、自分も同じ言葉を返したこと。
思い出すだけで頬が熱くなる。恥ずかしくて、それでもどうしようもないほど幸せだった。
まだ身体のあちこちに、テリィの気配が残っているような気がした。
抱きしめられた腕の強さも、頬に触れた吐息も、何度も優しく名前を呼ばれた声も、そして彼の唇も。
触れられるたび、自分がどれほど大切にされているのかを知らされたことも。
そのすべてを思い出すと、恥ずかしさに頬が熱くなる。でもそれなのに――愛しくてたまらなかった。
昨夜は、二人が離れ離れになる前の最後の夜だった。今日になれば、またそれぞれの生活へ戻らなければならない。互いに離れる時間を惜しむように、何度も抱きしめ合った。
若かった頃には知らなかった。誰かを愛するということが、こんなにも深く、こんなにも近いものなのだということを。
すぐそばにある吐息も、ぬくもりも、鼓動も、何もかもを感じながら、全身で同じ想いを確かめ合うことを。
長い間、離れていても互いを忘れられなかった。それだけでも十分だったはずなのに。
もう一度出会い、もう一度恋をして、そして今は、あの頃よりもずっと深く互いを知ってしまった。
――もう、離れたくない。
キャンディは膝の上の左手を見つめた。その想いは、これまでとは違う強さで胸の中にあった。
以前の自分なら、大切な人を守るためなら、自分が身を引くことも愛なのだと思えた。
テリィが苦しむくらいなら、自分がいなくなればいい。そうして一度、本当に彼の前から姿を消した。
けれど、もう同じことはできない。もしこれから先、どんなことが起きても。
あの日のスザナの事故のように、二人の人生を突然変えてしまう出来事が起きたとしても。
誰かのために離れることが正しいのだと、自分に言い聞かせなければならないようなことが起きたとしても。
――今度は、テリィの手を離さない。
何があっても、一人で決めて彼の前からいなくなったりしない。
苦しいことなら二人で苦しめばいい。迷うなら二人で迷えばいい。一緒にいる道を、最後まで探したい。
あれほど近くにいた人が、今はもう遠い。列車が進むたび、その距離は少しずつ広がっていく。それがたまらなく寂しかった。
キャンディは指輪をつけた左手を、そっと胸元へ引き寄せた。
――テリィ。
もう私は離れない。今度こそ、何があっても。そう心の中で誓った。
そう思ったときだった。胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
列車は走り続け、ニューヨークから、テリィから離れていく。
その距離が広がるほど、昨夜まで幸福の中へ隠れていたものが、少しずつ姿を現し始めた。
そして突然、遠い日の声が蘇った。
――テリィを離しちゃだめよ。
キャンディの表情が止まった。胸の奥が、ひやりと冷える。あの日、病院でスザナへ告げた言葉だった。
そして――もう二度とテリィには会わない。芝居も見ない。そう約束したことを。
スザナに信じてもらうために。テリィをあなたに託すのだと、自分自身にも言い聞かせるために。
キャンディは無意識に左手を握りしめた。その指には、テリィから贈られた指輪がある。
「私……」
小さな声が漏れた。
約束を破った。ずっと分かっていたはずなのに。
再会したときも、テリィへの想いを認めたときも、彼の腕の中へ戻ったときもどこかで分かっていた。
それなのに、考えないようにしていた。
テリィから「一緒に住まないか」と言われたとき、自分はすぐに答えられなかった。
仕事があり、ポニーの家がある。生活をすぐに変えることはできないとそう思っていた。それは嘘ではなかった。
けれど――それだけだったのだろうか。
キャンディは目を伏せた。あのとき胸の奥で自分を引き止めたもの。それはスザナへの約束だった。
ずっと心の奥にいた。見ないようにしていただけで。
列車の車輪が規則正しい音を刻んでいる。テリィとの距離が、また少し遠くなる。
指輪へ触れる。外したくない。テリィの婚約者でいたい。彼と結婚したい。一緒に暮らしたい。
朝になれば隣にいてほしい。仕事から帰ってきた彼へ「おかえり」と言いたい。
これから先の人生を、テリィと生きていきたい。
その願いは、もう誤魔化せないほど自分の中に根を張っていた。だからこそ、苦しかった。
「ごめんなさい……スザナ」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。窓へ映った自分の顔が、少し歪んで見える。
あの日、あれほど強く約束したのに。二度と会わないと言ったのは私。テリィを離さないで、と言ったのも私。でも私は――戻ってしまった。
それどころか、もう二度と、彼から離れたくないと思っている。
涙が一粒、頬を伝った。けれど、キャンディは指輪を外そうとはしなかった。それがいっそう、自分を苦しめた。
もし本当に約束を守るなら、今からでもテリィへ指輪を返せばいい。結婚できないと伝えればいい。そうすれば、あの日の約束だけは守れる。
そこまで考えた瞬間、胸が引き裂かれるように痛んだ。
「……できない」
思わず声になった。もうできない。あのひとを失うなんて。もう一度、自分からテリィの手を離すなんてできない。したくない。何もなかったことになんて、できない。
ニューヨークで再会したことも。もう一度恋をしたことも。抱きしめられたことも。愛していると言われたことも。自分も愛していると伝えたことも。昨夜、二人が心も身体も互いに委ねたことも。
すべて自分が望んだことだ。誰かに強いられたのではない。私は、自分でテリィを選んだ。その事実からだけは、逃げてはいけない。
キャンディは涙を拭った。けれど、また次の涙が溢れてくる。
「ごめんなさい……ごめんなさい、スザナ……」
許されるのかどうかも分からない。ただ謝りたかった。あなたにした約束を守れなかったことを。
もしテリィを愛したことを後悔できたなら、どれほど楽だっただろう。
けれどキャンディは、昨夜へ戻れるとしても、きっと同じ道を選んでしまう。
テリィの手を取り、プロポーズに頷き、そして、彼に愛していると伝える。それほどまでに愛してしまっている。
窓の外には、どこまでも続く景色が流れている。ニューヨークは、もう見えない。
キャンディは左手を胸へ抱きしめた。指輪の感触が掌へ伝わる。
うれしい、けど苦しい。幸せ、でも申し訳ない。
相反する感情が胸の中で絡み合い、どれが本当の自分なのか分からなくなる。
けれど一つだけ、はっきりしていた。
もう、テリィを愛していない自分には戻れない。
そして――戻りたくもなかった。
キャンディは静かに目を閉じた。
「神様……」
声は震えていた。その先の言葉は、まだ出てこなかった。
何を願えばいいのか、自分でも分からなかった。
許してください、と言えばいいのだろうか。
それとも、どうかテリィと幸せになることを許してください、と願えばいいのだろうか。
今のキャンディには、その違いさえ分からなかった。
ただ、涙を流しながら、胸の前でそっと両手を重ねた。
その薬指には、テリィから贈られた指輪があった。
祈る手の中で、それだけが静かに輝いていた。