高い天井、磨き上げられた床。壁には歴代当主と思われる肖像画が並び、中央には重厚な階段が伸びている。窓から差し込む夏の光が、広い玄関ホールへ静かに落ちていた。
テリィは一度、周囲を見渡した。キャンディはこの家の養女だが、彼女がどれほどこの場所で暮らしたのかは分からない。けれど、ポニーの家とはあまりにも違う世界だ。
「ウィリアム様は、書斎でお待ちです」
ジョルジュの声に、テリィは我に返った。
長い廊下を進む。テリィは少しだけ息を整えた。廊下の奥。大きな木製の扉の前で、ジョルジュが足を止める。
「こちらです」
扉を軽く叩く。
「ウィリアムさま。グランチェスターさまがお見えになりました」
中から、懐かしい声が返ってきた。
「入ってもらってくれ」
その声を聞いた瞬間、十年以上という時間が、一気に縮まったような気がした。
ジョルジュが扉を開く。テリィはゆっくりと中へ入った。書斎は広かった。高い天井まで届く本棚。大きな窓。窓の向こうには、深い緑の庭が広がっている。
中央には重厚な机が置かれ、その上にはいくつもの書類と、開かれた帳簿が並んでいた。
その机の向こうから、一人の男性が立ち上がる。アルバートだった。記憶の中より、少し肩幅が広くなったように見えた。
金色の髪は以前より短く整えられ、顔立ちにも青年の頃にはなかった落ち着きがあり、仕立てのよいスーツを着ている。だが、その青い瞳に浮かぶ穏やかな光は、昔と変わっていなかった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。互いの姿を確かめる。
記憶の中の人物と、目の前の人物を重ね合わせるように。やがてアルバートの表情が、ゆっくりとほころんだ。
「テリィ」
昔と変わらない呼び方だった。その一言で、テリィの胸にあった緊張が少しだけ解けた。
「アルバートさん」
自然に、昔と同じ呼び方が口から出る。
アードレー家総長でもない、キャンディの養父でもない、学院時代、自分が心から慕っていた人への呼び方だった。
アルバートは机を回り込み、テリィの前まで歩いてきた。二人はしばらく見つめ合い、やがて強く手を握った。
「久しぶりだな!」
「はい。本当に……お久しぶりです!」
「十年……いや、それ以上になるかな」
「そのくらいになりますね」
握手だけでは足りなかったのか、アルバートは空いている手でテリィの肩を叩いた。
「大きくなったな、テリィ」
その言葉に、テリィは思わず笑った。
「もう27ですよ」
アルバートも笑う。
「私の中では、まだ学院を抜け出してきた少年のままだよ」
「その少年に、飼育棟の休憩室でお茶をだして、ゆっくりしてってくれと言っていたのはアルバートさんでしょう?」
「私だったかな」
「忘れたとは言わせませんよ」
二人の間に、昔と同じ空気が戻ってくる。
ほんの数言。それだけで十分だった。立場も、肩書きも、歳月も、すべてが遠ざかった。
アルバートはテリィをソファへ促した。
「座ってくれ。話したいことが山ほどある」
「僕もです」
ジョルジュが静かに部屋へ入り、飲み物を用意する。テリィとアルバートの前には冷たいレモネード。
テリィはグラスを手に取りながら、改めてアルバートを見る。
「それにしても……」
「何だい」
「大変驚きましたよ」
テリィは書斎全体を見回す。
「まさか、アルバートさんがアードレー家の総長だったとは」
アルバートは苦笑した。
「驚かせちゃったかな」
「驚いたもなにもないですよ」
テリィは率直に言った。
「僕が知っていたアルバートさんは、動物が好きで、旅が好きな人でした。それが、これほど大きな一族を率いる立場だとは、思いもしませんでした」
アルバートは窓の外へ目を向ける。
「私自身、できれば今でも気ままに旅がしたいよ」
声にはわずかな自嘲が混じっていた。
「けれど、今はやらなければならないことがたくさんある」
自由とは、何も背負わないことではない。
自分で選んだものを、自分の意志で背負うことなのかもしれない。
「変わりましたね、アルバートさん」
テリィが言う。
アルバートは微笑んだ。
「君に言われたくないな」
「僕がですか?」
「そうだよ」
アルバートはまっすぐにテリィを見る。
「初めて会った頃の君は、誰も信じていないような目をしていた」
テリィは苦笑する。
否定はできなかった。
「いつも何かに怒っていた。自分自身にも、家族にも、世界にも」
「若かったんですよ」
二人は笑った。
やがてアルバートは、少し真剣な表情になる。
「だが、よくここまで来た」
テリィは視線を上げる。
「新聞で君の名を見るたび、驚いていたよ」
「悪い記事もありましたが」
「そうだね」
アルバートは笑う。
「舞台の評判も聞いてるよ。『ハムレット』も、SMTでの公演も。君が俳優として積み上げてきたものは、よく知っている」
「舞台を御覧になったことは?」
「残念ながら、まだないんだ」
「でしたら、今度は必ず招待します」
「楽しみにしているよ」
アルバートは穏やかに答えた。
「君が舞台の道を選んだことを、私はうれしく思っている」
テリィは少し黙った。
若い頃。
自分の生き方を誰にも理解されていないと思っていた。
父にも、シスターにも、世間にも。
そんな中で、アルバートだけは、自分が何者になりたいのかを急かさず見守ってくれた。
その人から今、選んだ道を認めてもらえる。
思っていた以上に、その言葉は胸へ響いた。