一月の終わり、『アントニーとクレオパトラ』は千穐楽を迎えた。ホリデーシーズンから続いた公演は盛況のうちに幕を閉じ、劇場にはしばらくその余韻が残っていた。終演後の楽屋口には花束を抱えた人々が集まり、新聞記者たちも俳優への短い取材を求めて待っていた。
その中心にいるのは、テリュース・グレアム。SMTでロミオを演じ、帰国後に改めてアントニーとして舞台へ戻った彼は、以前にも増して注目を集めていた。
ただ、本人はその熱をほとんど自分のものとして受け取っていない。拍手も、称賛も、花束も、すべて舞台へ返すべきものだと思っている。
だから終演後、どれほど多くの女性から声を掛けられても、彼の態度は変わらなかった。短く、礼儀正しく、誰に対しても同じ距離。それがかえって、相手の心に残ることを、テリィは知らない。
その日も、楽屋口の少し離れたところから、一人の女優が彼を見つめていた。
名はリリアン・フォスター。今回の『アントニーとクレオパトラ』に、他劇団から客演として参加していた女優だった。
役は大きくはなかったが、舞台上でテリィと同じ空気を吸い、稽古場で何度もその演技を間近に見た。
最初はただ、実力のある俳優だと思っていた。だが稽古が進むにつれて、彼を見る目が少しずつ変わっていった。
台詞を受ける時の集中。相手役へ向ける視線。一度芝居に入ると、周囲の空気まで変えてしまう力。
それでいて、舞台を降りれば驚くほど静かで、誰かに媚びることも、誰かを特別扱いすることもない。その冷静さが、リリアンにも魅力的に映った。
スザナ・マーロウとの関係が否定されたことも、彼女の背中を押した。少なくとも、世間に知られた相手はいない。ならば、自分にも可能性があるのではないか。リリアンはそう考えた。
千穐楽の夜、劇団員たちが互いを労い合う中、彼女はタイミングを見計らってテリィへ近づいた。
「グレアムさん」
テリィが振り向く。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
彼は穏やかに返した。
「客演とはいえ、とても学ぶことの多い舞台でした」
「こちらこそ助けられた」
「本当に?」
「ああ」
それだけで、リリアンの胸は少し弾んだ。
「また、どこかでご一緒できるといいですね」
「そうだな」
テリィはそう言って、次に挨拶へ来たスタッフへ視線を向けた。
会話は終わった。だがリリアンは、その短いやり取りを何度も心の中で繰り返した。
また、どこかで。彼はそれに同意した。もちろん社交辞令だとわかっているが、そこから先、リリアンの中で何かが止まらなくなった。
公演が終われば、客演女優は自分の劇団へ戻るのが普通だ。稽古場で顔を合わせる理由はなくなり、楽屋口で偶然会うこともなくなる。
だからリリアンは、偶然を待たないことにした。最初は、ほんの小さな好奇心だった。
テリュース・グレアムは、劇場を出たあとどこへ行くのだろう。誰と会うのだろう。ひとりなのだろうか。
舞台であれほど強い存在感を放つ人が、日常ではどんな顔をしているのか知りたかった。
彼女は劇場の近くで、遠くから彼の姿を見た。テリィはたいてい一人だった。
人目を避けるように急ぐわけでもなく、かといって誰かを待つ様子もない。コートの襟を立て、街灯の下を静かに歩いていく。
時には劇団の仲間と途中まで歩き、角で別れた。時には本屋に寄った。時にはホテルのラウンジで新聞を読み、すぐに出てきた。
そして何度かあとを追ううちに、リリアンは彼の住まいを知った。街の喧騒から少し離れた場所にある、高層の建物。
彼の車がそこへ入っていくのを見た時、リリアンはしばらく道の向こうに立ち尽くした。
自分でも、少し行き過ぎていることはわかっていた。だが、誰かに迷惑をかけているわけではない。そう自分に言い聞かせた。
テリィがよく使う道、立ち寄る店、外出する時間。そうしたものが少しずつ頭の中に積み上がっていく。
それは恋というより、役を掴む時の観察に似ていた。女優であるリリアンにとって、それは不自然なことではなかった。少なくとも、彼女はそう思おうとしていた。
二月に入ると、ニューヨークの空気は一段と冷たくなった。昼間でも風は鋭く、通りを歩く人々は足早に建物へ逃げ込んだ。
その日、テリィはデパートの紳士服売り場にいた。以前から頼んであったスーツの仕上がりを確認し、受け取るためだった。
売り場には落ち着いた照明が灯り、濃い木目の棚にネクタイや手袋が整然と並んでいる。
テリィは鏡の前に立ち、仕立て直された上着の肩を確認していた。
「よくお似合いです」
店員が控えめに言う。
「これで問題ないですね」
「では、包ませていただきます」
「お願いします」
短いやり取りを終え、テリィは包みを受け取った。
本来なら、そのまま帰るつもりだった。手紙も書きかけのまま机に置いてあった。
彼女と心を交わしてから、まだ日常は大きく変わってはいない。
会いたいと思っても、すぐに会える距離ではない。だからこそ、手紙を書く時間は彼にとって大切だった。
店を出ようとした、その時だった。
「グレアムさん?」
聞き覚えのある声に、テリィは足を止めた。
振り向くと、リリアン・フォスターが立っていた。
厚手のコートに身を包み、手には小さな紙袋を持っている。
「フォスターさん」
「まあ、本当に偶然ですね」
「そうですね」
テリィは礼儀として軽く会釈した。
「買い物ですか」
「ええ」
リリアンは少し困ったように笑った。
「父の誕生日が近くて、何か贈り物を探していたんです。でも、男性のものって難しくて」
彼女はわずかに首を傾げた。
「この売り場にも来てみたんですけど、何を選べばいいのか全然わからなくて」
「店員に相談するといいですよ」
テリィは当然のように答えた。
「では、これで」
そのまま立ち去ろうとする。
リリアンは一瞬、慌てた。このままでは終わってしまう。せっかく作った偶然が、ただの挨拶で終わってしまう。
「あの!グレアムさん!」
少し強めの声が出た。テリィが振り向く。リリアンはすぐに柔らかな表情を作った。
「少しだけ、付き合っていただけませんか?」
「私が?」
「ええ。父はあなたと同じくらい背が高いんです」
それは嘘だった。だが、ここで引くわけにはいかなかった。
「ネクタイか、手袋か、カフスか……少し見ていただくだけでいいんです」
テリィは包みを持ち直した。
「それこそ、店員に聞くといいですよ」
「でも、男性の目で見ていただけるだけで助かります」
リリアンは一歩近づいた。
「本当に少しだけでいいんです」
テリィは売り場の奥へ視線を向けた。断ることはできた。だが、相手は舞台で共演した女優である。父親への贈り物、それをむげに断るほどの理由もなかった。
「では少しなら」
そう答えた瞬間、リリアンの顔が明るくなる。彼女はうれしそうに微笑んだ。
「助かります」
テリィは軽く頷き、隣の売り場へ歩き出した。リリアンはその半歩後ろをついていく。彼の横顔を見上げながら、胸の奥で小さく息をついた。
偶然は作れる。少なくとも、ここまでは。問題は、この先だった。ただの買い物で終わらせるつもりはなかった。今日こそ、もう少しだけ彼の時間をもらう。リリアンはそう決めていた。
そしてテリィはまだ、自分がその小さな罠の中へ足を踏み入れたことに気づいていなかった。