「あれは、二か月くらい前のことなんだけど――」
キャンディは少し照れくさそうに笑うと、テリィの髪を優しく撫でながら話し始めた。
「その日ね、診療所がとっても忙しかったの。朝から患者さんが途切れなくて、お昼を食べる時間もないくらい。先生も私たちもみんな走り回っていてね」
テリィは目を閉じたまま頷く。
「容易に想像できる」
「でしょう?」
「それでね、ようやく落ち着いた頃に、お薬を病室へ届けに行ったの。その患者さん、とても気さくなおじいさんだったわ」
キャンディはその時のことを思い出しながら笑う。
「『キャンディ、今日は疲れてるねぇ』って言われて。思わず、『はい、今日はちょっとだけ……』なんて答えながら、お薬を渡して病室を出ようとしたの」
そこで一度言葉を切る。テリィは薄く目を開けた。
「それで?」
「病室を出たつもりだったの」
キャンディは恥ずかしそうに笑う。
「勢いよく歩き出したら……。開いていると思っていたドアが閉まっていて」
テリィの口元が緩む。
キャンディは両手で顔を覆った。
「ゴンッ!って」
テリィの肩が小さく震え始める。
「しかもね、その音を聞いた診療所中のみんなが走って来ちゃって。『キャンディ、大丈夫!?』って」
「ははっ……!」
笑い声が部屋へ響く。
キャンディも釣られて笑い始める。
「私は恥ずかしくて」
テリィは腹を抱えるように笑った。
「しかも、そのあと」
キャンディはさらに続ける。
「おじいさんが病室から顔を出してね。『キャンディ、今日はドアも診察したのかい?』って」
とうとうテリィは声を上げて笑い出した。
「あっははは!」
ホテルの静かな部屋へ、久しぶりに心からの笑い声が響く。
肩を震わせながら笑っている。
「……もう」
キャンディも笑いながら頬を押さえる。
「思い出しても恥ずかしい」
「いや……」
テリィは笑い過ぎて目尻へ涙が浮かんでいた。
その姿を見ていると、キャンディまでうれしくなってしまう。
しばらく笑い続けたあと、テリィはゆっくりと息を吐いた。
「なるほど」
「ね?」
「確かに笑うとリラックスする」
「でしょう?」
キャンディはどこか得意げに胸を張る。
「笑うことは心だけじゃなくて、身体も緊張がほぐれるんですって。だから今日は、それを試してみたの」
「患者じゃなくて、俺で?」
「もちろん。今日一番労ってあげたい人だもの」
その言葉に、テリィの表情がふっと柔らかくなる。
豪華なホテルも、美しい夜景も、千穐楽の喝采も。
もちろん忘れられない。
けれど今、この膝枕の温もりと、他愛もない失敗談で笑い合っている時間のほうが、ずっと心へ染みていた。
テリィはゆっくりと身体を起こした。
キャンディが少し驚いて見つめる。
「どうしたの?」
「俺が思ってた労うって、こういうことだったけどな」
キャンディは小さく首を傾げる。
テリィはその答えの代わりに、そっと彼女の頬へ手を添えた。
そして優しく唇を重ねた。
触れるだけの、穏やかな口づけ。
長い時間を埋めるような、温かなキスだった。
唇が離れると、キャンディは少し照れたように笑う。
「テリィ」
「うん?」
「千穐楽、本当にお疲れさまでした」
テリィは静かに微笑む。
「ありがとう」
短い言葉だった。
けれど、それだけで十分だった。
キャンディはそっと彼の手を包み込む。
窓の外では、クリスマスを迎えるマンハッタンの灯りが静かに輝いている。
愛する人の隣で心から笑い、心から安らぐことのできた。
そしてキャンディもまた、その笑顔こそが、この夜いちばん欲しかった贈り物なのだと、静かに感じていた。