車がホテルのエントランスへ静かに滑り込んだ。
制服姿のドアマンがすぐに近寄り、恭しく車のドアを開ける。
「お帰りなさいませ、グレアム様」
テリィは軽く頷き、助手席のドアを開けた。
「着いたよ」
キャンディは車を降りた瞬間、思わず息を呑んだ。
大理石が敷き詰められたエントランス。
天井から降り注ぐ幾重ものシャンデリア。
磨き上げられた真鍮の装飾、深紅の絨毯、季節を彩る大きなクリスマスツリー。
どれを見ても、まるで夢の世界だった。
「すごい……」
思わず漏れたその一言に、テリィは小さく笑う。
「気に入った?」
「気に入ったなんて……」
キャンディは辺りを見回したまま首を振る。
「私、こんな立派なホテル初めて」
その様子があまりにも初々しくて、テリィは思わず口元を緩めた。
「今日は思い切って奮発した」
フロントではすでに手続きが済んでいたらしく、鍵を受け取るだけで案内係が二人をエレベーターへ導く。
最上階に近いスイートルーム。
大きな窓からは、クリスマス前のマンハッタンの夜景が一望できた。
キャンディは窓辺へ歩み寄り、しばらく言葉を失う。
「きれい……。劇場街も見えるのね」
テリィも窓の外を見つめ、静かに頷いた。
「あそこにさっきまでいたんだな」
二人はしばらく夜景を眺めていた。
その静かな時間を破ったのは、テリィだった。
「さて」
ソファへ腰を下ろしながら、一冊の革張りのメニューを手に取る。
「夕飯だけど」
キャンディも向かいへ座る。
「レストランへ行くか、それともルームサービスにするか。きみが決めていいよ」
そう言って二冊目のメニューを手渡した。
キャンディは両手で受け取り、そっと開く。
「わぁ……」
思わず声が漏れた。
厚手の上質な紙。
金の箔押し。料理の名前だけでも、どこか芸術作品のように並んでいる。
「前菜……」
小さく読み上げる。
「オマール海老のビスク……」
「仔牛のフィレ……」
「鴨のロースト……」
ページをめくるたび、どれも美味しそうで目移りしてしまう。
「どうしよう……」
真剣な顔で悩み始めた。
「どれも美味しそう。決められないわ」
テリィは腕を組みながら、その様子を楽しそうに眺めている。
キャンディは次のページを開く。
「デザートもある。これも美味しそう……」
またページを戻る。
「でも、お魚も捨て難いし……」
さらに戻る。
「ええと……」
テリィはとうとう吹き出した。
「そんなに悩むか?」
キャンディは真顔で頷く。
「だって全部美味しそうなんだもの。一つに決めるなんてもったいない」
「なるほど」
テリィは顎へ手を当て、大真面目な顔を作る。
「じゃあ、全部頼もうか」
キャンディはぴたりと動きを止めた。
「……全部?」
「うん。前菜からデザートまで全部。せっかくだし」
キャンディは目をぱちぱちさせる。
「そんなの食べきれないわ」
「残せばいいさ」
「だめ」
即答だった。
「食べ物を残したら、もったいないもの」
その返事に、テリィは堪えきれず笑い出した。
キャンディはようやく、自分がからかわれていることに気付く。
「最初から冗談だったの?」
「半分くらい」
「半分?」
「残り半分は本気」
「もう、テリィ!」
頬を少し膨らませる。その表情が可愛らしくて、テリィはますます笑ってしまった。
「そんなに笑わなくてもいいでしょう?」
「悪い悪い」
笑いながら両手を上げる。
「じゃあ、こうしよう」
テリィはメニューを引き寄せた。
「きみが一番気になるものを頼む。俺は別のものを頼む。それで半分ずつ食べよう」
キャンディの表情がぱっと明るくなる。
「それ、いい!それなら二種類食べられるもの。まだ悩んでるけど」
「やっぱり悩むのか」
「もちろん」
キャンディは再びメニューへ顔を近付ける。
その横顔を眺めながら、テリィは静かに思った。
久しぶりに会えた夜。
豪華なホテルも、美しい夜景ももちろんうれしい。
けれど今、一番幸せだと思えるのは。
目の前で真剣な顔をしてメニューとにらめっこしている、この人の笑顔を見ていられることだった。