映画館を出ると、シカゴの夜はすっかり深まっていた。街灯の明かりが濡れた石畳を照らし、行き交う人々の吐く白い息が夜へ溶けていく。
しばらく二人は並んで歩いた。映画の余韻がまだ胸の中に残ったまま。
「面白かったわ」
キャンディがようやく口を開く。
「最後まで騙された」
「俺も」
テリィは笑った。
「でも、途中から犯人探しどころじゃなくなったけど」
「あら、どうして?」
「俳優の癖だな。表情とか間とか、そういうのばかり見てた」
キャンディは思わず吹き出した。やっぱりテリィはテリィだった。
やがて二人は大通り沿いに建つホテルへ入った。一階奥にあるラウンジは柔らかな照明に包まれている。磨かれた木の床に重厚な家具、暖炉の火。そして奥のステージではジャズバンドが演奏を始めていた。
心地よい音色が店内へ流れていく。案内された席へ腰を下ろすと、キャンディは思わず周囲を見渡した。
「素敵ね」
「気に入ったか?」
「うん」
「それはよかった」
「こんなお店、知ってたの?」
「汽車を待ってるときに、駅にあった雑誌を見た」
テリィは満足そうに笑った。食事が運ばれてくる。二人は食事をしながら話した。話題は尽きなかった。その時だった。
「失礼いたします」
穏やかな声が聞こえる。振り返ると黒い燕尾服を着た男性が立っていた。どうやらホテル専属の奇術師らしい。近くのテーブルでも歓声が上がっている。
「少しお時間よろしいでしょうか?」
キャンディが驚いたようにテリィを見る。テリィは面白そうに頷いた。
奇術師はカードを取り出した。目にも止まらぬ手さばき。カードが消えてまた現れる。観客席から小さな歓声が上がる。キャンディも思わず拍手した。
「どうなってるの?」
テリィが苦笑する。さらに奇術師はコインを取り出した。キャンディの手のひらへ乗せる。確かにあったはずのコインが、次の瞬間には消えていた。
「えっ!?」
キャンディが本気で驚く。テリィが声を上げて笑った。
「きみ、本当に騙されやすいな」
「だって消えたのよ!」
「俺も見てた」
「笑い事じゃないわ」
そのやり取りを見て奇術師も微笑む。そして最後に一枚のトランプを取り出した。
「お二人に幸運を」
そう言ってカードを裏返す。そこには赤いハートのエース。観客席から拍手が起きる。奇術師は優雅に一礼すると去っていった。
奇術師が去ったあとも、キャンディはまだ不思議そうな顔をしていた。
「あれ、どうなってたのかしら」
グラスを手に取りながら首を傾げる。その様子が可笑しくて、テリィは笑った。
「さっきのコイン。どこに消えたの?」
「たぶん俺、わかるかも」
その言葉にキャンディの目が輝く。
「ほんと?教えて!」
身を乗り出してくる。テリィは腕を組んだ。
「どうしようかな」
「えー」
「教えたら俺に何かいいことあるのか?」
キャンディは真剣な顔で考え込む。そして数秒後。
「……デザートのチェリーあげる」
テリィは吹き出した。
「だって私の大事なチェリーよ?」
「うーん、いらないかな」
「じゃあ、もう一個パン食べる?」
「ますますいらない」
キャンディは不満そうに頬を膨らませた。その顔が可愛くて、テリィは笑いを堪える。
「わかったよ。ご褒美はきみのチェリー(唇をちょんとする)でいいよ」
「って、テリィ!」
そう言うとポケットから硬貨を取り出した。25セント銀貨を、テーブルの上で軽く転がす。
「たぶんこうだ」
そう言いながら一度だけ手元へ視線を落とす。キャンディには見えないように何かを確認する。そして硬貨を指先で摘まんだ。
「いいか?」
キャンディは真剣な顔になる。テリィは硬貨を右手へ移して握る。反対の手で軽く叩く。そして、ぱっと手を開いた。硬貨は消えていた。
「えっ!?」
キャンディが目を丸くする。テリィは平然としている。
「ちょ、ちょっと待って!」
キャンディはテリィの両手を覗き込む。どこにもない。
「今のと同じだった!」
「たぶんな」
「だからどうやったの?」
テリィは肩をすくめる。
「だから教えたじゃないか」
「教わってない!」
キャンディは本気で抗議した。するとテリィは堪え切れず声を上げて笑う。
「見てただろ?しかもかなりの至近距離だ」
「そうだけど!」
「じゃあ考えてみて」
「もうっ意地悪!」
その言葉にテリィはますます楽しそうに笑った。
結局その夜、キャンディは何度も種明かしを迫ったが、テリィは最後まで教えなかった。
「もうそろそろ観念したらどうだ」
「えーだって、気になるもの」
「俺は別のことが気になるけど」
「ん?何?」
テリィは少しだけ笑った。暖炉の火が青灰色の瞳に映る。
「楽しそうに笑ってるきみ」
キャンディは一瞬言葉を失った。そして頬を赤くする。
「もう……」
「本当だ」
ジャズが流れている。暖炉が燃えている。グラスの音が遠くで響いている。そのどれもが心地よかった。
だがテリィにとっては、向かいに座るキャンディの笑顔以上に目を引くものはなかった。
再会してまだ数時間。それなのに、もう明後日には別れが来る。そんなことを考えてしまう。
だからだろうか。こうして向かい合っている時間が、ひどく愛おしかった。
キャンディも同じだった。話しても話しても足りない。見ても見ても見足りない。
シカゴの冬の夜。
ジャズの音色に包まれながら、二人は静かに同じ時間を重ねていった。