「冷めないうちに食べよう」
テリィが照れ隠しのように笑うと、キャンディも目元をぬぐって笑顔になった。
二人は向かい合ってテーブルにつく。大きな皿によそわれたビーフシチューから、湯気がふわりと立ちのぼる。
キャンディはスプーンですくい、一口運んだ。途端に目を丸くする。
「うん、おいしい!」
もう一口。今度はゆっくり味わうように口へ運ぶ。
牛肉はほろりと崩れ、野菜の甘みがじんわりと広がる。長い時間をかけて煮込まれた優しい味だった。
「本当においしい……」
そう呟くと、嬉しそうにテリィを見つめる。
「世界で一番おいしいビーフシチューだわ」
「大げさだな」
照れ笑いを浮かべるテリィだったが、その頬は少し赤かった。
「大げさじゃないもの。だって、あなたが私のために作ってくれたんだもの」
その一言だけで、何時間も鍋の前に立っていた時間も、プロポーズの言葉を思わず口にしたことも、すべて報われたような気がした。
「また作るよ」
「うん、何度でも食べたい」
穏やかな笑い声が、部屋いっぱいに広がる。
食事を終える頃には、窓の外はすっかり夜の色へ変わっていた。二人で後片付けを済ませる。
皿を洗うテリィの隣で、キャンディが布巾で水気を拭き取る。何気ない時間なのに、不思議なくらい幸せだった。まるで、ずっと前からこうして暮らしていたような気さえする。
「夫婦って……こんな感じなのかな」
キャンディがぽつりと呟く。テリィは手を止め、キャンディを見る。
「俺たちならいい夫婦になれる」
その返事に、キャンディは照れたように笑った。
片付けが終わると、二人は暖炉の前のソファへ並んで腰を下ろした。炎は静かに揺れ、部屋を柔らかな橙色に染めている。
テリィは自然にキャンディの肩を抱き寄せた。キャンディも何も言わず、その肩へそっと身を預ける。
薬指には、つい先ほど贈られた指輪。暖炉の明かりを受けて、小さく輝いていた。キャンディはその指輪へそっと触れる。
夢ではない。本当に、この人のお嫁さんになる。その実感が、胸いっぱいに広がっていく。
テリィもまた、彼女の横顔を静かに見つめていた。
今日一日で、恋人だった二人は、未来を誓い合う二人になった。そのことが何よりうれしかった。
しばらくどちらも口を開かなかった。たくさん相談しなければならないことがあるが、今は傍に置く。静かな時間が流れる。やがてテリィはキャンディの手を優しく包み込んだ。
そのぬくもりだけで、互いの気持ちは十分に伝わる。言葉にしなくても、二人とも同じことを感じていた。
今夜は、これまでとは違う夜になる。長い遠回りを経て、ようやくたどり着いた場所だから。
二人とも今夜がさらに特別な夜になることを予感していた。
キャンディはそっとテリィを見上げる。その瞳には、恥ずかしさと、それ以上の信頼が宿っていた。
テリィは何も急がず、ただ穏やかに微笑み返す。
テリィは彼女の手を離さないまま、ゆっくりと立ち上がる。
部屋の照明は落とされ、暖炉には静かな炎が揺れている。
時計の秒針の音が広いリビングから寝室へと続く静寂の中に、優しく溶け込んでいた。
寝室へ入っても、二人はしばらく何も話さなかった。話さなくても伝わるものがある。
互いの視線が重なるたび、胸の奥に積み重ねてきた年月が、静かにほどけていくようだった。
キャンディは立ち上がり窓辺に近寄ると、夜景を見つめる。遠くを走る車の灯り。ハドソン川に映る街の光。
この街で別れ、この街で再び巡り会い、そして今、この街で人生を共に歩む約束を交わした。
「きれい……」
小さく漏れたその声に、テリィは背後から近づいた。
「そうだな」
彼の低く穏やかな声が耳元に届く。肩へそっと触れられただけで、キャンディは身体を震わせた。緊張している。自分でもわかるほどだった。
「怖いか?」
テリィの問い掛ける声には、少しだけ不安が混じっていた。キャンディは振り返る。青灰色の瞳と、翡翠色の瞳が静かに重なる。
「……ううん」
微笑みながら首を横へ振った。
「怖くない。でも……すごく恥ずかしい」
その笑顔を見て、テリィも笑顔が広がった。
「俺もだ。こういう時くらい格好つけたいんだけどな」
そして困ったように肩を竦める。
「おれも余裕なんてない」
その正直な言葉が可笑しくて、キャンディはくすりと笑った。張りつめていた空気が少しだけほどける。テリィは改めて彼女の頬へ手を添えた。
「キャンディ」
名前を呼ぶ。その声だけで胸が熱くなる。もう何度聞いたかわからない名前なのに、今夜はまるで違って聞こえた。
ゆっくりと額が触れ合う。唇が重なる。長く、優しく。失った年月を埋めるように。互いの温もりを確かめ合うように。
唇が離れると、テリィはキャンディを抱き上げた。
「きゃっ……」
思わず首へ腕を回す。
「ごめん、重くない?!」
「いや……」
テリィは見上げる瞳に笑いかけると、すぐに真面目な顔になる。
「世界で一番大切なものを抱えてる。そういう意味の重さはある」
「テリィ……」
キングサイズのベッドには、白いリネンが美しく整えられていた。窓から差し込む月明かりがシーツを淡く照らし、暖炉の炎が金色の陰影を落としている。
テリィは壊れものを扱うような手つきで、キャンディをそっとベッドへ横たえた。ふかふかのマットレスが静かに沈む。
キャンディの金色の髪が白い枕へ広がった。その姿を見た瞬間、テリィは息を呑んだ。
学院時代、木登りばかりしていたお転婆な少女。けれど今、目の前にいる彼女は、違って見えた。
彼女は一人の女性だった。そして、これから生涯を共に歩む、自分の妻になる人。
テリィはベッドの縁へ静かに腰を下ろし、ただ見つめる。その青灰色の瞳には欲望よりも深いものが宿っていた。
愛おしさ。安堵。そして、失いたくないという切実な願い。キャンディは少し照れたように笑う。
「そんなに見つめられると……恥ずかしい」
「見惚れてるんだ」
テリィは迷いなく答えた。
「今日のきみは、きれいだから」
「……そんなこと」
頬が赤く染まる。
「本当だよ」
彼はそっと頬へ触れる。親指で涙の名残を優しくなぞる。
「これは……夢じゃないよな」
その一言は、自分へ言い聞かせるようでもあった。
何度も諦めようとした。何度も忘れようとした。
それでも忘れられなかった女性が、今、目の前にいる。キャンディはそっと彼の手へ自分の手を重ねた。優しく微笑む。
「私も、同じこと思ってた」
二人はしばらく言葉を失った。見つめ合うだけで十分だった。
この夜は、若い頃の情熱だけに身を任せる夜ではない。
数え切れない涙と別れを越え、ようやく「夫婦になる」と誓った二人が、心までも結び合う夜だった。
互いを信じ切った二人だけが持てる静かな幸福が、暖炉の炎のように、ゆっくりと二人を包み込んでいた。