インディアナ。午後になると空は薄く曇り始め、夕方には雪が降ることも珍しくない。
その日も診療所の仕事を終えたキャンディは、ポニーの家の暖炉の近くへ置かれた新聞を何気なく手に取り、自室にいった。
目に飛び込んできたのは、大きな舞台写真だった。思わず手が止まる。そこには見覚えのある横顔が写っていた。テリィだ。
舞台衣装に身を包み、客席のどこかを見据えている。その表情は凛々しく、堂々としていて、まるで別人のようだった。記事には大きな見出しが躍っている。
『SMT帰りの名優、ホリデーシーズンを席巻』
『テリュース・グレアムのアントニーに称賛の嵐』
『帰国後も勢い衰えず』
キャンディは自然と微笑んだ。
うれしかった。本当にうれしかった。たくさん遠回りをして、それでも諦めなかった人。その努力が報われている。
まるで自分のことのように誇らしかった。
「よかったわね、テリィ……」
誰もいない部屋で小さく呟く。だが、その笑顔は長く続かなかった。新聞を見つめているうちに、胸の奥へ小さな寂しさが入り込んでくる。
写真の中のテリィは眩しかった。たくさんの観客、大きな劇場、喝采。称賛の言葉の数々。ブロードウェイの至宝の文字。遠い世界。
一方の自分はどうだろう。村の診療所で働く看護婦。泥だらけの子どもを追いかけ、怪我をした農夫の手当てをし、包帯を巻き、苦しむ患者に注射を打つ。
もちろん、その生活が嫌なわけではない。好きな仕事だ。誇りもある。けれど、ふと思ってしまう。
本当に、彼と同じ世界にいるのだろうか、と。
新聞の写真を見つめる。舞台の上で輝くテリィは、どこか遠くの人のように見えた。
その時だった。自室の扉をノックする音がした。
「キャンディ、手紙よ」
レイン先生の声だった。キャンディは反射的に顔を上げる。そして差し出された封筒を見た瞬間、立ち上がっていた。
見慣れた文字。何度見ても胸が高鳴る。ニューヨークから届いた手紙だった。
慎重に封を開き、便箋を広げる。そして最初の数行を読んだだけで、キャンディは吹き出した。
『そういえば、この前きみが作ってくれたオニオンスープを真似してみたんだ。
きみは玉ねぎを炒めるところから作っていただろ?
あれなら俺にもできると思った。
結果から言うと失敗した。見事なくらい失敗した。
玉ねぎを焦がした。
少しだけなら大丈夫かと思ったんだが、どうやらそういう問題じゃないらしい。スープ全部が焦げ臭くなった。
あんなに美味かったものが、どうしてああなるのか不思議だ。結局、半分くらい食べて諦めた。
きみは簡単そうに作っていたのにな。
今度ちゃんと教えてくれ。……いや、やっぱりいい。
俺が作れるようになったら、きみが作ってくれなくなるかもしれないだろ?それは困る。
それに、作り方を覚えたらきみがニューヨークまで来る理由が一つ減る。だから知らないままでいることにする。
俺は大人しく食べる係だ。その方がずっと美味しいしな。』
キャンディはそこまで読むと、思わず吹き出した。テリィらしい。本当にらしい。大人になっても、時々こうして子どもみたいなことを言う。
けれど、その最後の一文が妙にうれしくて、キャンディは便箋を胸の前で抱きしめた。
「もう……テリィったら」
小さく笑う。次に会ったら作ってあげよう。ちゃんと焦がさないで。そしてきっとテリィは、美味しいと言いながら全部食べてしまうのだろうか。
そう思うと、離れているはずなのに少しだけ近くにいる気がした。さらに手紙を読み進める。
『アントニーとクレオパトラ』の公演は順調だ。
ありがたいことに客席は連日よく埋まってくれている。ただ、その分なかなか骨が折れる。
今のブロードウェイの劇場は、ほぼ週8公演体制なんだ。もちろんうちの劇団もそうなってる。
1週は7日なのに、8公演とは妙だろ?
つまり、昼公演の日もあれば夜公演の日もある。
一日に二度舞台へ立つ日も珍しくないというわけなんだ。
気が付けば朝から劇場にいて、帰る頃には日付が変わりそうになっていることもある。
それでも舞台に立つと不思議と疲れは消える。いや、消えた気になると言った方が正しいかもしれないな。
幕が上がれば、俺はアントニーになるから。
少なくとも一月二十日の千秋楽まではそうでなければならない。
舞台の上では役者自身が見えてはいけない。
観客が見たいのはアントニーであって、テリュースじゃないからだ。
だから劇場へ入ると頭の中も自然と切り替わる。
けれど、そんな毎日の中でも時々ふっと気が緩む瞬間がある。
例えば楽屋へ戻った時。
例えば夜遅く部屋へ帰った時。
そんな時に思い出すのは決まってきみだ。だから最近は少し困っている。
アントニーでいなければならないのに、気が付くときみのことを考えているから……
そういえば、本棚に置いてある『ピーター・ラビット』の絵本だが、あれは今では少し特別な本になってしまった。
もともとは慈善公演の読み聞かせで使っただけだった。捨てる理由もなく、そのまま本棚の隅に残していただけだ。
けれど今はあの本を見ると、きみの声を思い出す。
あの日、ソファに並んで座りながら読んでくれたこと。全部思い出す。
不思議なもので、思い出すだけじゃない。今でも聞こえる気がするんだ。
耳で聞いているわけじゃない。もっと奥だ。
耳の奥よりもさらに深いところ。
心の中に、今でもきみの声が響いている。
おかしな話だろ? けれど本当なんだ。
先日も何気なく本棚から取り出してみた。開いただけなのに、またきみが隣にいるような気がした。
俺は芝居をしているから声には多少うるさい方だと思っていたが、きみの声は少し特別らしい。
聞いていると妙に落ち着く。だから困る。
もしかしたらそのうち、きみに絵本を読んでもらうのが癖になるかもしれない。
そうなったら責任を取ってくれ。
今度会うまでに何か面白そうな本を探しておこうと思う。』
キャンディは笑いながら便箋を胸に抱いた。
窓の外では雪が降り始めている。
キャンディは新聞へもう一度目を向けた。
舞台の上で輝くテリィ。大勢の観客から拍手を受ける俳優。
けれど、その同じ人が玉ねぎを焦がし、絵本を見ながら自分を思い出している。
思わず笑みがこぼれた。
遠い世界の人だと思ったのは、ほんの少し前のことだった。
キャンディは便箋を胸へ抱き寄せた。
離れていても大丈夫。手紙の向こうには、ちゃんとテリィがいる。
そう思うと、心は不思議なくらい温かかった。