キャンディがインディアナへ帰ってから、一週間が過ぎた。ニューヨークはホリデーシーズンを迎えようとしていた。
街路樹には飾りが吊るされ、劇場街には色とりどりの電飾が灯り始めている。夕暮れが早くなった街は、日に日に華やかさを増していた。
けれど、テリィにとってその一週間は妙に長かった。
朝、目を覚まし、顔を洗い、コーヒーを淹れ、そして出掛ける前に、必ず郵便受けを確認する。
インディアナからニューヨークまで手紙が届くには時間が掛かる。
そんなことはわかっていた。わかっているのに、つい見てしまう。
何も入っていない郵便受けを閉じるたび、自分でも苦笑する。
「気が早すぎるな……」
誰もいない部屋で呟きながら、コートを羽織る。そして劇場へ向かう。
『アントニーとクレオパトラ』の稽古は佳境を迎えていた。
演出家の声、大道具を動かす音、台詞合わせ、剣術稽古。やるべきことはいくらでもある。
舞台へ立てば集中できた。
キャンディのことを忘れるわけではない。
だが芝居をしている間だけは、目の前の役に没頭できる。
それでも帰宅すると駄目だった。気が付けば、また郵便受けを確認している。もちろん朝から状況は変わらない。
自分でも呆れる。だが仕方がなかった。
これまでの8年と違うのだ。
やっと届いた一通の封筒。いや、やっとというほど遅いわけではない。テリィが待ち侘びていたせいだ。
差出人の文字。そこには見慣れた名前があった。その瞬間、自分でもわかるほど表情が変わった。
思わず周囲を見回してしまう。もちろん誰もいない。だがそれでも、今の自分の顔を誰かに見られたくなかった。
こんなにもうれしそうな顔をしている自覚があったからだ。
部屋へ戻る。コートも脱がずにソファへ腰を下ろした。そして封筒を丁寧に開く。便箋が現れる。
キャンディらしい整った文字。それだけで胸が温かくなった。
テリィへ
お元気ですか?
私は元気です。
無事にポニーの家へ帰っています。
まずはお礼を言わせてください。
ニューヨークでは何から何まで、本当にありがとうございました。
ホリデーシーズンの稽古で忙しいのに、たくさん時間を作ってくれてありがとう。
とても楽しかったです。
そこまで読んだだけで、テリィは小さく笑った。
文字なのに。紙の上の言葉なのに。まるでキャンディの声が聞こえる気がした。続きを読む。
ニューヨークももうだいぶ寒いのでしょうね。
こちらもずいぶん寒くなりました。
朝になると畑には霜が降りています。
でも、子どもたちは元気です。
自由の女神のお話をしたら、みんな羨ましがっていました。
テリィの口元が緩む。容易に想像できた。
子どもたちに囲まれ、身振り手振りで話すキャンディの姿が。
そして手紙は続いていた。
昨日はちょっと失敗もしました。
ポニーの家の子どもたちの洋服にボタンを付けていたら、掛けていたひざ掛けにまで縫い付けていました。
ポニー先生に呆れられました。
でも子どもたちは笑っていました。
少し恥ずかしかったです。
思わず吹き出す。そんな光景まで目に浮かぶ。
舞台の上で輝く女優の話ではない。社交界の華でもない。
ただのキャンディの日常。けれどテリィは夢中で読んでいた。
研修医の一人が採血で失敗して大騒ぎになったこと。
ポニーの家の子どもたちが雪合戦を始めたこと。
どこかで飼われてた犬が待合室で昼寝していたこと。
小さな出来事。何でもない日常。
だが、それこそが知りたかったことだった。
8年の空白。
その間のキャンディを全部知ることはできない。
けれど今のキャンディは知ることができる。
今日何をして、誰と笑い、どんな一日を過ごしたのか。
それがうれしかった。そして最後の一文へ辿り着く。
毎日あなたのことを思い出しています。
キャンディ
飾り気もない。特別な言葉でもない。
だが、その一行を読んだ瞬間、テリィは動けなくなった。
便箋を見つめる。もう一度読む、そしてまた読む。何度も、何度も。
胸の奥が熱かった。
舞台で喝采を浴びる時とも違う。
主演を勝ち取った時とも違う。
もっと静かで、もっと深い幸福だった。
「……反則だろ」
誰もいない部屋で小さく呟く。
キャンディはきっと無自覚だ。だから余計にたちが悪い。
テリィは便箋を胸に当てた。
暖炉の火が静かに揺れている。
部屋には自分しかいない。それなのに不思議と孤独ではなかった。
遠く離れたインディアナ。雪の降る村。
そのどこかでキャンディも自分を思い出している。
それだけで十分だった。
テリィは机へ向かう。
引き出しから便箋を取り出す。
まだ手紙が届いたばかりだというのに、もう返事を書きたかった。
書きたいことが山ほどあった。
そして何より、自分も伝えたかった。
今日もまた、きみのことを考えていたと。