キャンディを見送ってから数日が過ぎていた。ニューヨークの冬は相変わらず冷たかったが、テリィの心は不思議なくらい軽かった。

もちろん寂しくないわけではない。むしろ逆だった。朝起きればキャンディのことを思い出し、夜になれば今頃どこで何をしているだろうと考える。

手紙はまだ届いていない。投函しても届くのに数日かかるのだから。それでも郵便受けを見る回数が増えている自分に気づき、苦笑することもあった。

そんなある朝、テリィはいつものように劇場へ向かった。ホリデーシーズンを控えた劇場街は活気に満ちている。

街全体が演劇の熱を帯びていた。

劇場へ入ると、ちょうどロビーで見覚えのある顔と鉢合わせた。

「よう」

振り向いたテリィは思わず笑う。

「よう、ケビン」

ケビン・マクグラスだった。

長かった公演を終えたばかりの顔には、どこか達成感が滲んでいる。テリィは肩を軽く叩いた。

「全日程、完走おめでとう」

ケビンは照れくさそうに笑った。

「サンキュ」

そして胸を張る。

「これでテリィのSチームにいいバトンを渡せるよ」

「重いバトンだな」

「そんなこともないだろ。お前が帰ってきたってだけでチケット売れるんだから」

「やめろ」

テリィは苦笑した。するとケビンが思い出したように眉を上げる。

「ところで腹の調子は大丈夫なのか?」

「腹?」

テリィは本気で首を傾げた。ケビンのほうが驚く。

「なんだよ、その反応」

「いや、本当に何の話だ?」

「お前、腹痛で早退したんだろ?」

その瞬間だった。

テリィの脳裏に、妙に芝居がかった顔で腹を押さえていた自分と、横で熱演していたマイケルの姿が蘇る。

「ああ……」

ようやく思い出した。完全に忘れていた。ケビンはそんな事情など知らない。

「珍しいってみんな言ってたぞ」

「そうか」

「マイケルなんか変なもの食べたんじゃねえかって心配してたし」

テリィは心の中で呟く。

――適当に言いやがって

だがもちろん口には出さない。

「ああ、ありがとう」

「顔色はいいみたいだな」

「もう平気だよ」

「ならよかった」

二人は笑い合った。それから二、三言葉を交わし、それぞれの持ち場へ向かう。

テリィは楽屋へ入った。鏡の前へ座る。衣装が掛かり、台本がある。見慣れた光景だった。

今回の公演は『アントニーとクレオパトラ』のサンクス公演でもあった。テリィが途中で渡英したことで中断された公演。当時のチケットを持っていた観客たちは、新たな日程へ振り替えることができた。

さらにそこへ、シェイクスピア・メモリアル・シアターでロミオを演じた俳優の凱旋公演という話題が加わった。発表直後から反響は大きかった。劇場側はうれしい悲鳴を上げている。

だが、当の本人はどこか他人事だった。ありがたいと思っている。観客にも感謝している。けれど、それ以上に頭を占めることがあった。

キャンディ、その名前だった。

もう診療所で働き始めているだろうか。手紙は書いているだろうか。そんなことばかり考えている。

だが不思議なことに、それで芝居が乱れることはなかった。むしろ逆だった。SMTでの一年は確実にテリィを変えていた。

役への入り方、台詞の重さ、沈黙の使い方。視線や呼吸。そのすべてに深みが増している。

稽古場には静かな緊張感が漂っていた。

『アントニーとクレオパトラ』。

この日の稽古は終盤の重要な場面だった。

ローマとエジプト。義務と愛。その狭間で揺れるアントニー。

シェイクスピア作品の中でも、とりわけ感情表現が難しい場面である。

舞台中央に立ったテリィは、相手役と向かい合っていた。監督が声を上げる。

「では続きから」

静寂。次の瞬間、テリィの表情が変わった。稽古場にいた誰もが息を呑む。つい先ほどまで笑っていた男とは思えなかった。そこにいるのはアントニーだった。

愛する女性を前にしながら、自らの立場も責任も理解している男。

手を伸ばしたい。だが伸ばせない。離れたくない。

だが離れなければならない。

その相反する感情が、台詞より先に瞳へ宿っていた。

相手役の女優が思わず一瞬言葉を忘れそうになる。

それほどだった。

テリィは大きな動きをしない。

声を荒げることもしない。

ただ相手を見つめる。

それだけなのに胸が締め付けられる。

監督は腕を組んだまま動かなかった。そして周囲の俳優たちも。誰一人として物音を立てない。

テリィの台詞が終わる。沈黙。本来なら次の台詞が入るはずだった。だが相手役の女優が完全に見入っていた。

「……あ」

我に返ったように台詞を続ける。稽古が終わった時だった。監督が小さく息を吐いた。

「テリュース」

テリィが振り返る。

「はい」

監督はしばらく言葉を探していた。やがて静かに言う。

「お前、イギリスで何を学んできた?」

稽古場に笑いが起きる。だが監督は本気だった。

「いや、本当に別人みたいだ」

テリィは困ったように頭を掻く。

「ストラトフォードでは、付いていくのが精一杯でしたよ」

「嘘つけ」

横からケビンが即座に突っ込んだ。

「何かあっただろ」

マイケルも頷く。

「絶対あった」

テリィは苦笑した。何も答えない。答えられるはずもなかった。だが監督は小さく笑う。

「まあいい」

そして真面目な顔になる。

「今の場面は良かった」

それは滅多に褒めない監督からの最大級の賛辞だった。監督は続ける。

「技術だけじゃない。相手を失いたくない男の感情が見えた。それも、ただの恋愛じゃない。人生そのものを失いたくない男だった」

稽古場が静かになる。テリィも何も言わなかった。

ただ胸の奥で、ある金色の髪を思い浮かべていた。

そして誰にも気づかれないように、ほんの少しだけ微笑んだ。