翌朝は、穏やかな時間が流れていた。朝食を終えたあとも、二人とも慌ただしく支度をする気にはなれなかった。キャンディが帰る列車は午後三時発。まだ時間はある。だからこそ、その限られた時間が愛おしかった。
暖炉の火は小さく燃えている。冬の朝の陽射しが窓から差し込み、リビングを柔らかく照らしていた。二人はソファに並んで腰を下ろしていた。静かな時間だった。ふと、キャンディの視線が本棚へ向く。何かを思い出したように立ち上がった。
「ねぇ、テリィ」
「ん?」
「どうしてピーター・ラビットがあるの?」
テリィは一瞬だけ本棚を見て、それから笑った。
「ああ、それか。慈善公演で読み聞かせがあったんだよ」
その答えにキャンディは目を丸くした。そして次の瞬間、吹き出した。
「慈善公演でピーター役をやったって言うのかと思っちゃった」
テリィも思わず笑う。
「それはさすがにない」
「似合うかもしれないわよ?」
「どこがだ」
「いたずら好きなところとか」
「それならきみのほうが向いている」
二人は声を立てて笑った。笑いが落ち着いたあと、キャンディは本棚から絵本を取り出す。表紙を撫でながら言った。
「これね、診療所にも同じ本があるのよ」
「へぇ」
「夕方になると子どもたちが来るの」
テリィは興味深そうに耳を傾けた。
「学校が終わっても、農作業してるお父さんやお母さんはまだ帰ってないでしょう?だから待ってる間、診療所で遊んで待つってわけ」
キャンディはそっと微笑む。
「そうするとね。読んでって頼まれるの」
テリィの表情が柔らかくなる。その光景が目に浮かぶようだった。
「どんな風に読むんだ?」
キャンディは少し首を傾げた。
「どんな風に?」
「うん、聞いてみたい」
テリィの素直な言葉だった。キャンディは微笑む。
「じゃあ少しだけ」
再びソファへ腰を下ろす。膝の上に絵本を開く。テリィも自然と身体を寄せページを覗き込む。
そしてキャンディは読み始めた。穏やかな声だった。俳優のような大袈裟な抑揚はない。けれど不思議と耳に心地良い。
柔らかく、優しく、聞いているだけで安心する、まるで暖かな毛布に包まれているような声だった。
テリィはいつの間にか身体を横へ倒していた。そして自然にキャンディの膝へ頭を乗せる。
キャンディは少しだけ目を丸くした。だが読み聞かせは止めない。ページをめくりながら続ける。
テリィは目を閉じる。言葉よりも、物語よりも、キャンディの声そのものを聞いていた。
やがて最後のページが閉じられる。部屋は静かになった。暖炉の音だけが聞こえる。
テリィは目を閉じたままだった。キャンディは少し首を傾げる。
「テリィ?」
返事はない。
「寝ちゃったの?」
すると小さな声が返ってきた。
「いや」
目は閉じたままだった。
「きみを感じてた」
キャンディが瞬きをする。
テリィはゆっくり言葉を続けた。
「こうして耳を澄ますと」
その声は穏やかだった。
「きみの声が心に響いてくる」
暖炉の火が揺れる。
「柔らかくて、優しくて、愛しくて」
キャンディの胸が熱くなる。テリィは静かに微笑む。
「次に会えるまで、しっかり覚えておこうと思う」
「テリィ……」
次の瞬間、テリィが目を開いた。視線が重なる。柔らかな微笑み。いつの間にかキャンディは彼の髪を撫でていた。だが、その指先は優しかった。
ただ好きな人に髪を撫でられる、それだけで満たされる自分がいた。
テリィは両腕を伸ばしキャンディの首へ回す。そして引き寄せる。自然な動きだった。
唇が重なる。深く、甘く、互いを確かめるように。
別れの近い時間だからこそ、なおさら愛おしかった。
やがて唇が離れるとテリィは身体を起こした。そしてそのままキャンディを抱きしめる。
強く。けれど優しく。キャンディは少し驚いた。
「テリィ?どうしたの?」
テリィはすぐには答えなかった。
ただ抱きしめたまま目を閉じる。そしてようやく口を開く。少し掠れた声だった。
「もう少しこのままでいたい」
キャンディは何も言わない。ただその背中へ腕を回した。
暖炉の火が静かに揺れる。
しばらくして、テリィは絞り出すように呟いた。
「離れたくないんだ」
その言葉にキャンディの胸が締め付けられる。
同じ気持ちだった。けれど次の瞬間、テリィは苦笑した。
「なんてな」
少しだけ明るい声を作る。
「そういう思いがあることは覚えておいてくれ」
重くしたくなかった。笑顔で送り出したかった。だからそう言った。
キャンディはその気持ちを理解した。
だから今度は自分から抱きつく。頬を彼の肩へ寄せる。
「テリィ」
「ん?」
「またニューヨークに来ていい?」
テリィは迷わなかった。
「もちろん」
即答だった。
「いつでも来い」
そして優しく続ける。
「俺も千秋楽が終わったら行くよ」
キャンディの顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「約束よ?」
「約束だ」
二人は微笑み合った。
別れは近い。けれど今度は終わりではない。会いたいと思えば会える。
その当たり前のことが、二人には奇跡のように思えた。
暖炉の火は静かに燃え続けていた。
その温もりの中で、二人は残された時間を惜しむように寄り添っていた。