食後の紅茶が運ばれ、個室には穏やかな時間が流れている。窓の外ではニューヨークの夜景が輝いていた。けれど二人の視線はほとんど外へ向かなかった。8年分の空白を埋めるには、まだまだ時間が足りない。
キャンディは紅茶のカップを両手で包み込むように持ちながら、ふと口を開いた。キャンディは少し照れたように笑った。
「今ごろになってごめんね。テリィ。シェイクスピア・メモリアル・シアターでの初主演、おめでとう」
静かな声だった。けれど心からの祝福だった。
「本当にすごいわ」
テリィは一瞬だけ目を見開いた。そして小さく笑う。
「ありがとう」
その声はどこか照れ臭そうだった。
「気にかけてくれてたんだな」
キャンディは不思議そうな顔をする。
「もちろんよ」
即答だった。少し笑う。
「だって。主役を掴むから見ててくれって、テリィが言ったんだもの」
テリィは思わず頭を掻いた。
「そんなこと言ったか?」
「ええ、言ったわよ」
本気で記憶が曖昧だった。あの頃の自分は、キャンディと再会できたことだけで頭がいっぱいだった。
ロンドンへ行くこと、オーディション、そんなものは二の次だった気がする。もちろん、それは口にはしない。
やがてキャンディは興味深そうに身を乗り出した。
「でも、どんな感じだったの?オーディション」
キャンディの瞳が輝いている。
「ブロードウェイの推薦でエントリー資格を得たって新聞で読んだわ」
テリィは頷いた。紅茶を一口飲む。
「まあ、その通りだな」
そして説明を始めた。
「エントリー資格そのものは連盟と協会が決めるんだ。だから俺たち俳優は、選ばれてから初めて知る」
「そうなの?」
テリィは肩を竦めた。
「応募したくてもできないってことだ」
キャンディは感心したように息を吐く。
「そこからなのね」
その眼差しには素直な尊敬があった。
「選ばれる人にならないといけないんだ」
テリィは少し照れた。キャンディはさらに続ける。
「ほかにも、候補者が賭けの対象になってたって」
その途端、キャンディの眉が寄った。
「ひどいわよね」
本気で怒っている顔だった。
「みんな真剣に取り組んでるのに」
その表情が可愛くて、テリィは思わず笑ってしまう。
「笑い事じゃないわ」
「イギリスはそういう国なんだよ」
テリィは苦笑した。少し意地悪そうな笑みを浮かべる。
「その賭けで言えば、俺は一番オッズが高かった」
キャンディが首を傾げる。
「高いってことは評価が高いってこと?」
「違う。その逆。大穴だった。つまり、一番可能性が低いと思われてた」
キャンディは目を丸くした。
「ええっ?」
「だから俺に賭けた連中は儲かったんじゃないか」
肩を竦める。キャンディはますます納得がいかない。そして真顔で言った。
「信じられない。私ならテリィ一択で全財産賭けるのに」
数秒の沈黙後、テリィは吹き出した。
「今、無一文なのに?」
キャンディもようやく気付いた。そして二人同時に笑い出す。
「それはそうね」
「全財産ゼロドルだもんな」
「ひどい!私だって帰れば少しくらいは!」
笑い声が個室に響く。ようやく落ち着いた頃。今度はテリィの方から話し始めた。その声には自然と熱がこもっていた。キャンディはすぐに聞く姿勢になる。
「オーディションではな、監督が次から次へ要求してくるんだ」
「例えば?」
「同じ場面を十通りでやれとか」
キャンディが目を丸くする。
「十通り?」
「もっとあったかもしれない」
テリィは笑った。
「怒りを抑えろ」
「もっと怒れ」
「今度は静かに絶望しろ」
「次は怒りながら笑え」
「その次は笑いながら絶望しろ」
キャンディは思わず吹き出した。
「大変そう」
「うん、大変だった」
テリィも認める。
「でも面白かった」
そして少し遠くを見る。
「ブロードウェイと解釈が全然違うんだ。だからこそ興味深かった」
そこから先は止まらなかった。演出家のこと、最終選考のこと、ロンドンの劇場のこと、稽古のこと。ロミオという役について。
キャンディは楽しそうに聞いていた。時折質問し、驚き、笑い、感心する。そんな反応がうれしくて、テリィも次々と話してしまう。
気が付けば紅茶はすっかり冷めていた。二人ともそれに気づいていなかった。
その時だった。コンコン。個室の扉が静かに叩かれる。テリィは我に返った。扉が開かれ、給仕係が丁寧に一礼した。
「失礼いたします」
銀のポットを持っている。
「紅茶のおかわりはいかがでしょうか」
テリィは腕時計を見る。そして少し驚いた。想像以上に時間が経っていた。キャンディも時計を見て目を丸くする。
「もうこんな時間?」
「みたいだな」
テリィは微笑む。そして給仕へ向き直った。
「ありがとうございます。ですが、そろそろ帰るから大丈夫です」
「かしこまりました」
給仕は一礼して退出した。再び静かになる個室。テリィは窓の外を見る。ニューヨークの夜景はさらに輝きを増していた。
そして向かいに座るキャンディを見る。
今日という日は、まだ終わってほしくなかった。
けれど同時に思う。帰り道も、この後の時間も、まだ二人のものなのだと。