列車の最後尾が見えなくなっても、テリィはしばらくホームに立ち尽くしていた。
白い蒸気だけが冬の空へ溶けていく。
先ほどまでそこにいたキャンディの姿はもうどこにも見えない。それでも視線を動かせなかった。
8年前の別れを思えば、今回の別れはまったく違う。
今度は終わりではない。
想いは伝え合った。手紙を書く約束もした。また会う約束もある。
それなのに胸の奥が妙に寂しかった。
「行くなよ……」
思わず漏れた言葉に、自分で苦笑する。
列車が出発してまだ10分も経っていない。まだニューヨーク市内を抜けてもいないだろう。
それなのにもう会いたくなっている。我ながら重症だと思った。
ようやく踵を返し、駅舎を出る。
冬の風が頬を撫でた。車に乗り込みエンジンをかける。帰り道は来た時よりずっと短く感じた。
助手席を見る。当然ながら誰もいない。けれど少し前までそこにはキャンディが座っていた。
自由の女神へ向かう道では窓の外を見ながら楽しそうに笑っていた。
レストランへ向かう時はマフラーに顔を埋めながら、ニューヨークの街並みを興味深そうに眺めていた。
信号待ちのたびに隣へ視線が向く。空席を見るたび、少し胸が締め付けられた。
やがてペントハウスへ戻る。
エレベーターを降り、部屋の鍵を開けた瞬間、驚くほど静かに感じた。
昨日まで当たり前のように聞こえていた笑い声も、食器の触れ合う音も、名前を呼ぶ声も、今はない。
ただ静寂だけが部屋を満たしていた。けれど、その静けさの中には不思議とキャンディの気配が残っていた。
リビングへ入ると、本棚に並ぶピーター・ラビットの絵本が目に入る。
今朝、キャンディが読んでくれた本、診療所へ集まる子どもたちに読み聞かせをしていること、その時の子どもたちの様子。楽しそうに話していた姿まで思い出される。
ソファを見る。そこにはさっきまで二人で並んで座っていた時間が残っていた。
テリィは自然とその場所へ腰を下ろした。
そして思わず微笑む。ここでキャンディに髪を撫でられたのだ。あの時の心地良さを思い出すだけで胸が温かくなる。
キッチンへ向かう。
伏せられたマグカップが二つ並んでいる。朝食の後に洗ったままのものだった。ただの食器なのに、なぜだか愛おしい。
テリィは伏せられたマグカップへ、そっと指先を添えた。ふと、昨夜の夕食を思い出す。
他愛もない話をしていたはずなのに、気づけば話していたのは自分のことばかりだった。
ロンドンでの暮らし。SMTでのこと。
舞台で感じたこと。芝居のこと。
キャンディは時折目を丸くしたり、優しく笑ったりしながら、興味深そうに耳を傾けてくれていた。
「それで?」
「その後はどうなったの?」
そんなふうに質問を返されるたび、また次の話をしたくなる。気づけば時間はあっという間に過ぎていた。
「……また俺ばかり話してたな」
思わず苦笑が漏れる。
不思議だった。キャンディの前では、どんな些細なことでも話したくなる。
舞台のことも、仕事のことも、日々の出来事も。
どんな話でも、彼女が相手だと楽しかった。
そういえば、一年半前に再会した時も同じだった。
劇場を案内しながら、自分のことばかり話していた。
どうしてなのだろう。こんなにも、自分のことを知っていてほしいと思う。
まるで離れていた年月を埋めるように、一つ残らず伝えておきたくなるのかもしれない。
その答えに行き着くと、テリィは小さく笑った。
きっと自分は、キャンディに自分の人生を共有してほしいのだ。
そして同じように、キャンディのことももっと知りたいと思っている。
そんな当たり前の願いが、今になって少しだけ照れくさく思えた。
荷物になるから置いていけと言ったのは自分だ。
けれど今は、その判断を少しだけうれしく思う。
部屋のあちこちにキャンディがいた。
笑った場所がある。
立っていた場所がある。
名前を呼んだ場所がある。
ほんの数日しかいなかったはずなのに、この部屋はすっかり彼女の思い出で満たされていた。
テリィは再びリビングへ戻る。
暖炉の前へ立ち、ゆっくり目を閉じた。
そして唇に指先を当てる。
発車直前のホーム。
人々の視線が列車へ向いた瞬間に交わした口づけ。
そして今朝の静かなキス。
十年以上ぶりに重ねた唇。
初めてではないけれど、あの頃とはまるで違っていた。
想いを伝え合い、未来を約束したあとに交わす口づけは、こんなにも幸せなものなのかと思う。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
そして同時に、もう会いたくなっていた。
キャンディの笑顔が見たい。
声が聞きたい。
名前を呼びたい。
その事実に呆れながらも、どこかうれしかった。
8年前の自分には想像もできなかった未来だ。
窓の外では夕陽がゆっくりと傾き始めている。
テリィは机へ向かった。
引き出しから便箋を取り出す。
まだ別れて数時間しか経っていない。
それでも構わなかった。
どうせ近いうちに書くつもりだったのだから。
ペンを手に取る。
白い便箋の上へ最初の一行を書いた。
――キャンディへ。
その文字を書いた瞬間、自然と笑みが零れる。
まるで彼女がすぐそばにいるような気がした。