テリィがペントハウスの玄関を開けた時だった。
「ただいま」
そう声を掛けた途端、部屋の奥から何やら慌ただしい物音が聞こえてきた。ドタドタ。ガタッ。そしてキャンディの声。
テリィは眉を上げる。何事だろう。不思議に思いながらリビングへ向かう。すると、そこには予想外の光景が広がっていた。
「はい!腰を回して!」
両腕を前へ伸ばし、今度は横へ。
「しっかり曲げて!」
次は身体をひねる。
「そしてこうね」
片足を上げる。今度は腰へ手を当てて屈伸する。どうやら何かの運動らしい。だが見たことがない。しかも本人はいたって真面目だった。
テリィはしばらく黙って見ていた。だがキャンディは全く気づかない。完全に自分の世界へ入っている。やがて一連の動きが終わる。キャンディは姿勢を正した。そして誰もいないはずの空間へ向かって明るく言う。
「では、本日の腰痛予防体操は終了です!皆さん、お疲れ様でした!」
その瞬間だった。パチパチパチと拍手が聞こえた。キャンディが凍り付く。ゆっくり振り返るとそこにはテリィが立っていた。満面の笑みで。拍手までしている。数秒の沈黙。キャンディの顔がみるみる赤くなる。
「テリィ!」
テリィは笑いを堪えながら言った。
「失礼」
「いつから見てたの?」
「途中から」
「途中ってどこから?」
「『はい、腰を回して!』のあたり」
キャンディは両手で顔を覆った。ほとんど全部だった。テリィは肩を震わせる。
「今のは何だったんだ?」
キャンディは少しむくれた。明らかに笑われたと思った。だが説明はする、看護婦として。
「少し前に研修で教わったの」
「研修?」
「そう。腰痛予防体操」
テリィが首を傾げる。キャンディは真面目な顔になった。
「村は農家や酪農家が多いでしょう?だから足腰を痛める人も多いの。筋肉や関節が硬くなると怪我もしやすくなるから、それを防ぐための運動なのよ」
「なるほど」
「いわば準備運動みたいなものね」
キャンディは頷いた。
「私も担当することになったから、忘れないように復習してたの」
テリィは少し反省した。そして素直に言う。
「笑って悪かった」
その表情があまりにも真面目だったので、今度はキャンディが吹き出したそのとき。
「あっ……」
軽くふらりと身体が揺れ、少しだけ重心を崩れた。
「危ない!」
低い声とともに、テリィの腕が自然に伸びていた。
細い肩を支え、もう片方の手がそっと背中へ添えられる。キャンディは思わず息をのんだ。
「ご、ごめんなさい……」
「大丈夫か?」
「うん……ちょっとよろけただけ 」
そう答えながらも、すぐには動けなかった。同じベッドで眠っていたのに、急に距離が縮まることには慣れていない。
支えられた肩から伝わる温もりや、見上げた先にある青灰色の瞳は、昨夜と変わらないはずなのに、昼間の明るい部屋では妙に照れくさかった。
昨夜、ようやく恋人になった。けれど八年前の自分たちではない。
互いを想う気持ちが深いからこそ、この距離の近さに胸が高鳴ってしまう。
テリィも同じだった。支えようとしただけなのに、腕の中へ収まる彼女の温もりを意識した途端、自分の鼓動まで早くなる。
ほんの一瞬、このままでいたいと思ってしまう。
目が合うとどちらともなく、小さく笑う。照れ隠しのような、くすぐったい笑顔だった。
テリィは名残惜しさを胸の奥へしまい込み、ゆっくりと手を離す。
「……ちゃんと立てるか?」
「うん。ありがとう」
そう答えたキャンディは、頬をほんのり赤く染めたまま微笑んだ。
たった数秒の出来事、それでも二人には、これまでとは少しだけ違う時間が流れているように感じられた。
時計を見る。まだ10時を過ぎたばかりだった。
「テリィ……こんなに早く帰ってきて、何か忘れ物?」
当然の疑問だった。ところがテリィは平然と答える。
「いや、帰ってきた」
「……え?」
「帰ってきた」
キャンディは瞬きをする。
「稽古は?」
「終わった」
「こんな時間に?」
「そういう日もあるよ」
実に堂々としていた。もっとも、その裏でマイケルと繰り広げられた三文芝居のことをキャンディは知らない。テリィは話題を変えるように言った。
「せっかくだし、どこか行こうか」
「え?いいの?!」
キャンディが首を傾げる。
「どこか?」
「昨日は買い物だったけど、あれは必要なものを揃えただけだから、出掛けたうちには入らない」
そして少し身を乗り出した。
「どこ行きたい?」
突然の質問だった。キャンディは考える。そしてすぐに思いついた。
「決まったか?」
「うん!」
その笑顔は少女みたいだった。
「自由の女神!」
テリィは一瞬目を瞬く。
「自由の女神?」
キャンディは大きく頷いた。
「ニューヨークに来たなら、一度は行ってみたい場所よね」
その声には期待が溢れていた。テリィはしばらく彼女を見つめる。そして笑った。
「よし。じゃあ行くか」
「いいの?」
「もちろんだ」
キャンディの顔がぱっと輝く。
窓の外には青空が広がっていた。
二人だけの休日が、今から始まろうとしていた。