先に寝息が聞こえてきたのはキャンディだった。
つい先ほどまで緊張し、テリィの隣で身体を硬くしていたはずなのに、数分でその呼吸は穏やかな寝息へ変わっていた。テリィは思わず苦笑する。
「本当に寝たのか……」
小さく呟く。返事はもちろんない。キャンディは気持ちよさそうに眠っている。
長旅の疲れは残り、盗難騒ぎで心を削られ、しかも慣れないニューヨーク。無理もないと思う。それでも……
「あんまり安心されると困るって、本当なんだけどな……」
テリィは天井を見上げる。自分でも呆れる。8年越しに想いが通じたばかりなのだ。
好きな女性が隣にいる。しかも手を伸ばせば触れられる距離に。男として妙な気持ちにならない方がおかしい。
だが同時に、それ以上に愛おしかった。隣で眠るキャンディが。
昔から見てきた寝顔のはずだった。セントポール学院時代も、医務室でも眠る姿を見たことはある。昨夜もそうだった。それなのに、今はまるで違って見える。
テリィはそっと手を伸ばした。金色の髪を撫でる。頬へ指先が触れる。柔らかい。その温もりに胸が締めつけられる。
本当にここにいる。夢じゃないのだ。
テリィは小さく息を吐いた。そして再びそっと髪を撫でる。何も知らず眠るキャンディは微動だにしない。テリィは思う、ちょっと目を開けてほしい自分がいることを。
「ほんとに起きないんだな」
思わず笑う。そのまま頬へ軽く口づける。羽が触れるほどの優しいもの。
それでもキャンディは起きない。ただ幸せそうに眠っている。テリィは肩を震わせた。
「こんなにかわいいと思うなんて、困ったな……」
もう一度だけ寝顔を見つめる。そして毛布をそっと引き上げた。
冷えないように。優しく肩まで掛け直す。それからようやく自分も目を閉じた。胸の奥は驚くほど穏やかだった。その夜、テリィは久しぶりに深く眠った。
翌朝、キャンディはまだ薄暗い部屋で、ゆっくりと目を開けた。
窓の隙間から差し込む朝の光は淡く、隣ではテリィが静かな寝息を立てている。その横顔を見つめたまま、昨夜の出来事を思い返した。
夢ではない。何度も遠回りをして、何度も諦めようとして、それでも心のどこかで消えなかった想い。
8年という歳月を越えて、ようやく同じ未来を歩いていけるのだ。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(ほんとうに……あのテリィなんだ)
そっと手を伸ばしかけて、でも眠りを妨げたくなくて途中で止める。代わりに小さく微笑んだ。
昨夜は緊張で眠れないと思っていたのに、不思議なくらい安心して眠ってしまった。
こうして隣で眠るテリィを見ているだけで、心が満たされていく。
(ありがとう……)
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
再び巡り会えた運命へなのか。ここまで諦めずにいてくれたテリィへなのか。それとも、何度迷っても彼を好きでい続けた自分自身へなのか。
小さく息を吐くと、キャンディは音を立てないよう静かにベッドを抜け出した。せめて今朝くらいは、彼のために何かしたかった。
そう思いながら、キッチンへ向かう足取りは自然と軽くなっていた。
テリィが目を覚ました時だった。
違和感があった。隣が空いている。ぼんやりした頭で視線を向ける。キャンディの姿がない。
同時に、どこからかいい香りが漂ってきた。
鼻をくすぐる優しい匂い。玉ねぎを炒めた香り。
スープの香りだった。その瞬間、キッチンの方から微かな物音が聞こえる。
テリィは身体を起こし時計を見る。まだ朝の早い時間だった。
寝癖のままベッドを降り、シャツとジーンズを適当に身につける。
そしてリビングへ出た。そこで足を止める。
キッチンにキャンディがいた。朝の光が窓から差し込んでいる。
エプロンこそしていないが、袖を少しまくり、鍋をかき混ぜていた。テーブルにはすでに朝食の準備が並んでいる。
テリィはしばらく何も言えなかった。不思議な光景だった。自分の部屋なのに。どこか違う場所みたいだった。
その視線に気づいたのだろう。キャンディが振り返る。そしてぱっと表情を明るくした。
「おはよう、テリィ」
その笑顔が眩しい。テリィも自然と笑っていた。
「おはよう、キャンディ」
それだけなのにうれしかった。キャンディは鍋の火を弱める。
「もう少しでできるわ」
「こんな朝から何してるんだ」
「目が覚めちゃったの」
キャンディは肩を竦める。
「それにずっとご馳走になってばかりだったでしょう?」
「そんなの気にしなくていい」
「私はそういうの気にするの」
即答だった。
「だからせめて朝ご飯くらい作らせて」
テリィは苦笑し、降参する。
「わかったよ。ありがとう」
昔から変わらない。人の世話を焼くのが好きで、誰かのために動いている時が一番楽しそうだ。
キャンディはスープを皿へ注いだ。
「味見してくれる?」
「もちろん」
テリィは席へ着く。差し出されたスープを一口飲む。
優しい味だった。身体の芯まで温まる。思わず目を閉じる。
「どう?」
少し不安そうな声。テリィは顔を上げた。
「うん、うまい」
素直な感想だった。
「ほんと?」
キャンディの顔が、ぱっと花が咲くようにほころぶ。
その笑顔を見た瞬間だった。
テリィは椅子から立ち上がると、何も言わずキャンディをそっと抱きしめていた。
「……テリィ?」
不意のことにキャンディが目を丸くする。
テリィは小さく笑った。
「あんまり幸せそうに笑うから、我慢できなかった」
腕の中で、キャンディは照れたように笑う。
「俺のために作ってくれたことが、うれしいんだ」
舞台の成功も拍手も喝采ももちろんうれしい。
だが今この瞬間の方が、ずっと幸せかもしれない。
朝の光が部屋を満たしていた。
二人の新しい一日が静かに始まろうとしていた。