その頃、テリィは劇場にいた。
朝の稽古場にはいつもの活気が戻っている。
俳優たちの発声練習、大道具係の掛け声、台本を読み合わせる声。昨日と変わらない光景だった。
だが、テリィの頭の中だけはまったく違った。
稽古場の片隅で団長と打ち合わせをしながらも、ふとした拍子に思い出すのはキャンディのことばかりだった。
昨夜ソファで眠っていた姿、毛布を掛けた時の寝顔。
今頃は起きただろうか。朝食は食べただろうか。
そんなことばかり考えている自分に苦笑する。
「テリュース?」
団長に呼ばれて我に返った。
「ああ、すみません」
「珍しいな。上の空じゃないか」
「少し寝不足で」
適当にごまかす。幸い、それ以上は追及されなかった。
打ち合わせを終えると、テリィは楽屋へ向かった。
途中でふと足が止まる。
昨日のキャンディの姿が脳裏をよぎった。渡したシャツ一枚。
荷物は盗まれ、ドレスは雨で泥だらけ。靴だってあのままだ。
テリィは顔をしかめた。服くらいなら何とかなる。だが、その先が問題だった。
女性が必要なものを、自分は何一つ知らない。
いや、正確には知識としては知っている。だが買ったことはない。当然だ。
そこで思い浮かんだ顔が一つあった。
テリィは方向を変えた。そして、ある楽屋の扉を叩く。
「どうぞ〜」
気の抜けた声だった。
扉を開く。中にはマイケルがいた。
椅子に座って新聞を読んでいる。
テリィを見るなり目を丸くした。
「珍しいな。俺の楽屋に来るなんて」
「頼みがあるんだ」
その一言でマイケルの眉が上がる。
「まさか、金か?」
「違う」
「それなら、役の相談か?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
テリィは少しだけ言いづらそうに咳払いをした。
そして言う。
「おまえの姉さんに頼みたいことがある」
マイケルは新聞を落とした。
「……は?」
「だから」
「いや待て待て待て」
マイケルは立ち上がる。
「なんで姉さんなんだ?」
「それはその……女性だからだ」
「は?余計わからない」
テリィは額を押さえた。
説明したくない。だが説明しないと話が進まない。
頼む以上言わないとならないが、どこか観念したように息を吐く。
「昨日、受付で揉めていた女性がいただろ」
「ああ」
マイケルはすぐ思い出した。そして目を見開く。
「そうだ、友人だったんだ」
その答えにマイケルは黙る。
友人?なるほど。
だからあんな勢いで飛び出していったのか。
マイケルは昨日の受付での出来事を思い返した。
その女性は、テリィの名を呼びながら必死な様子で受付係に何かを訴えていた。
しかし今はそこを突っ込まない。
「なるほど。で、なぜ姉さん?」
「彼女、荷物を盗まれたんだ」
「うわ、ひど……」
「服も何もなくて」
「なるほど」
ようやく話が見えてきた。マイケルは腕を組む。
「そうか、だから姉さんか」
「そういうことなんだ」
「それなら確かに俺じゃ無理だな」
テリィは頷いた。
「頼めるか。今日……いや、最悪明日にでも」
マイケルはにやりと笑った。
「頼むのはいいけど」
嫌な予感がした。
「姉さん、面倒見いいけど、おせっかいだぞ」
「知ってる」
「ま、いろいろ覚悟しろよ」
テリィは小さくため息をついた。だが今は背に腹は代えられない。
早速マイケルは姉へ電話を掛けた。
受話器の向こうから聞こえてくるのは、弟とは正反対のはきはきした女性の声だった。
キャサリン、マイケルの姉である。
事情を聞き終えた彼女は開口一番こう言った。
「なるほどね、これからで私はOKよ。そういうことなら、早い方がいいものね」
姉の声が、なんとなく楽しげに聞こえた。
だがこういう時の姉は、とても頼りになるのだ。
「じゃあ任せなさい」
受話器の向こうでそう言う声は、妙に楽しそうだった。