扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。テリィの部屋へ入るまで、ただ必死だった。荷物を盗まれ、警察へ行き、見知らぬ街を歩き回り、ようやくここまで辿り着いた。だから緊張している暇などなかった。

けれど部屋の扉が閉まった瞬間、張りつめていた糸がふっと緩む。

本当に会えた、その実感が胸いっぱいに広がる。安心すると同時に、今度は別の意味で鼓動が速くなった。ここはテリィの家。そして今、この部屋には二人しかいない。

窓の向こうには夜のニューヨークが広がっている。

無数の灯り、遠くを走る車の列。そしてここは彼の生活の場所だ。

仕事場や舞台でもなく、誰かに見せるための場所でもなく、テリィが帰ってくる場所。その事実を意識した瞬間、キャンディは急に落ち着かなくなった。

テリィも同じだった。鍵を置き、コートを脱ぎながら、妙に緊張している自分に気づく。

劇場なら平気だった。それなのに今は違う。部屋の中には自分とキャンディしかいない。たったそれだけのことなのに、心臓が妙に落ち着かなかった。

「えっと……」

先に口を開いたのはテリィだった。

「とりあえず着替えだな」

キャンディが我に返る。

「あ……うん」

言われて初めて自分の姿を見下ろした。ドレスの裾は泥だらけだった。雨で濡れた部分も乾き始めている。髪も乱れているだろう。今さらながら恥ずかしくなった。

「ちょっと待っててくれ」

テリィは部屋へ消える。数分後、両腕に衣類を抱えて戻ってきた。

「こういうのしかないけど」

差し出されたのは白いシャツや柔らかなニットの上着など。

「ズボンは大きすぎるよな……」

そう言いながら頭を掻く。キャンディは思わず吹き出した。

「たしかにそうね」

ようやく自然に笑えた。その笑顔を見た瞬間、テリィの肩からも少し力が抜ける。

「とりあえず温まった方がいい」

そう言ってテリィは浴室へキャンディを案内する。リネン棚を開ける。普段ほとんど来客などない部屋だ。まして女性が泊まることなど考えたこともない。

大きなバスタオルを取り出しながら、まだ妙に落ち着かない気分は続く。

「これを使ってくれ」

キャンディが受け取る。

「ありがとう」

「それと……」

テリィはバスルームの扉を開けた。

「こっちがシャワー」

説明しながら自分でも何をしているんだろうと思う。舞台の段取りを説明する方がよほど気楽だった。

「お湯はこっちを回せば出る」

「うん」

「こっちが石鹸」

「うん」

「それで……」

そのまま言葉が止まる。キャンディが不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの?」

「いや……」

テリィは頭を掻いた。

「女性ものがないなと思って」

数秒の沈黙。そしてキャンディがかすかに吹き出した。

「いや、まあ……」

テリィも苦笑する。

「ありがとう。シャンプーだけで十分だから」

「悪い」

「ううん、気にしないで」

その笑顔に少しだけ安心する。けれど今度は別の意味で落ち着かなくなった。

キャンディがバスルームへ入る。扉が閉まる。テリィは何とも言えない気分のままリビングへ戻った。

ソファーへ腰を下ろすと深く息を吐き、落ち着こうとする。だが落ち着かない。

視線は自然とバスルームがある玄関の方へ向いてしまう。

その時、シャワーの音が聞こえてきた。ざあっと勢いよく流れるお湯の音。

テリィは思わず天井を見上げた。

「……参ったな」

誰に聞かせるでもなく呟く。舞台の初日でもここまで緊張したことはない。

キャンディは何も悪くない。悪くないのだが、部屋の向こうでシャワーを浴びているという事実が妙に意識してしまう。

テリィは頭を抱えた。

一年半もかけて手紙を書いた男とは思えないほど情けない姿だった。

シャワーの音はしばらく続いていた。テリィはさらにソファーへ深く腰を沈め、落ち着こうとする。だが、うまくいかなかった。

やがて水音が止んだ。部屋に静寂が戻る。その瞬間、今度は別のことが頭に浮かんだ。

髪を拭いているのだろうか。濡れた髪をタオルで包みながら鏡の前に立っているのだろうか。

そんな想像が不意に浮かび、テリィは顔をしかめた。

「何考えてるんだ、俺は……」

思わず呟く。頭を振る。

情けない。キャンディは困っているのだ。荷物を盗まれ、行き場を失い、ようやくここへ辿り着いた。そんな相手に対して考えることではない。

テリィは肘を膝につき、額を押さえた。長い間胸の奥にしまい続けてきた想いがある。だからといって、こんなふうに振り回される自分はどうかと思った。それでも心臓だけは、少しも言うことを聞いてくれなかった。

その頃、バスルームではキャンディが鏡の前に立っていた。

濡れた髪を整え、借りたシャツへ袖を通す。当然ながら大きかった。けれど不思議と温かかった。

鏡の中の自分を見る。まるで子供が大人の服を借りたみたいだった。

思わず笑ってしまう。そして、ふと気づく。自分は今、テリィのシャツを着ている。その事実を意識した瞬間、耳まで熱くなった。

「もう……」

誰もいないのに呟く。心臓が落ち着かない。

ここへ来るまでは必死だった。だから気づかなかった。けれど今は違う。ようやく会えて今、自分はテリィの家にいる。それが妙に現実味を持って胸へ迫ってくる。

リビングに入るとテリィが振り向く。そして固まった。キャンディも立ち止まり、一瞬だけ沈黙が落ちた。

白いシャツを着たキャンディ。袖は長く、裾は膝くらい。不格好だがその姿は驚くほど可愛らしかった。テリィは慌てて視線を逸らした。

「に、似合うな」

言った瞬間、自分で何を言っているんだと思った。

キャンディも目を丸くする。そして少しだけ頬を赤くした。

「ありがとう」

それだけしか言えない。二人とも妙に照れていた。

部屋には静かな空気が流れる。気まずいけれど心地いい。そしてどこか甘く落ち着かない。そんな不思議な空気だった。

「そうだ。腹減っただろ?」

先に沈黙を破ったのはテリィだ。何かしていないとおかしくなりそうだった、と同時に彼女は食事をする金がないことを忘れるところだった。

「……少し待ってろ」

そう言ってキッチンへ向かう。キャンディはその背中を見送る。その何気ない光景が、愛おしく見えた。

窓の外では夜のニューヨークが輝いている。

けれど二人の世界は、今はこの部屋だけだった。