受付へ辿り着いた時、テリィは珍しく息を切らしていた。階段を駆け下り、そのままロビーへ飛び込む。だが、そこにいたはずの人影はどこにもなかった。
広いロビーには観客たちの姿がある。開演中の劇場特有のざわめきも聞こえる。けれど、マイケルが話していた女性の姿は見当たらない。
テリィは辺りを見回した。もう一度、そしてもう一度。それでも見つからない。受付へ駆け寄る。
「さっきの女性は?」
受付係の男が顔を上げた。
「グレアムさん?」
「キャンディス・ホワイトという女性だ」
男はすぐに思い出したらしい。
「ああ、あの方ですか」
「どこへ行った?」
「お帰りいただきました」
その言葉に、テリィの表情が変わる。
「帰した?」
「ええ。なかなか納得していただけなくて苦労しましたが……」
そこまで聞いたところで、テリィはもう走り出していた。男は呆気に取られる。
入口の扉が勢いよく開かれた。
夜の風が吹き込む。そしてテリィは通りへ飛び出した。
劇場街はまだ賑わっていた。ネオンが輝き、人々が行き交う。馬車も自動車も絶え間なく往来している。その中でテリィは辺りを見回した。
どこだ。どこへ行った。
キャンディがここにいる。そんなことが本当にあるのか。
信じられない気持ちと、確信にも似た気持ちが同時に胸を満たしていた。
「キャンディ!」
思わず声を張り上げる。周囲の人々が振り向く。だが構わなかった。もうそんなことを気にしている場合ではない。
「キャンディ!」
再び叫ぶ。通りを走り、劇場の前を抜ける。角を曲がり、人波の中を探し続ける。
ブロードウェイでも指折りの人気俳優が、人目も憚らずに一人の女性を探している。
本来なら大騒ぎになっていてもおかしくない光景だった。だが誰も気づかなかった。
稽古終わりのテリィは舞台衣装でもなければ外出着でもなく、シャツの袖をまくり、稽古用の服を着たままだった。
髪も少し乱れ、人々の知る華やかなスターとはあまりに違っていた。だから誰も、それがテリュース・グレアムだとは思わなかった。
五分ほど経った頃だった。通りの向こうに、一人の女性の後ろ姿が見えた。
街灯の下を歩いている。足取りは重く、ドレスの裾は泥で汚れていた。雨に濡れた跡もある。
その姿を見た瞬間、テリィの心臓が大きく鳴った。
「キャンディ!」
声が夜の街へ響く。女性が足を止め、ゆっくり振り返る。そして二人の視線がぶつかった。
時間が止まったようだった。キャンディだった。
間違いない。一年半前、改札で別れた時と同じ金色の髪。けれど今は少し疲れた表情をしている。
テリィの姿を見た瞬間、キャンディは動けなくなった。
ただ見つめている。信じられないものを見るように。
テリィも同じだった。本当にいる。夢ではない。幻でもない。キャンディがここにいる。
次の瞬間、テリィは走り出していた。車や馬車を避け、人波に逆らい、息を切らしながら。
まもなく距離が詰まり、立ち止まる。肩でしか息ができない。
「どうしたんだ?」
呼吸が乱れたまま、言葉はどんどん溢れる。
「何があった?」
キャンディは瞬きを繰り返している。
「その格好は?」
泥だらけの足元。濡れたドレス。疲れ切った顔。どう見ても普通ではない。
「なぜニューヨークに?」
次々と質問が飛び出す。
「一人で来たのか?」
「泊まる場所は?」
「怪我はしてないか?」
キャンディは何一つ答えられなかった。あまりにも突然だった。手紙を読んで、決心して、ここまで来た。
ようやく辿り着いたと思ったら追い返されて、その直後に本人が現れたのだ。
頭が追いつかない。そしてテリィもようやく気づいた。自分が矢継ぎ早に質問していることに。
「悪い」
思わず苦笑する。額へ手を当てた。
「まず順番に聞かないとな」
キャンディもようやく小さく笑った。それだけでテリィは少し安心する。少なくとも泣いてはいない。
大丈夫だ。事情はわからないが、それだけで十分だった。
「とりあえず、ここじゃ駄目だな」
テリィは周囲を見回した。通行人もいる。立ち話をする場所ではない。
「ちょっと一緒に来て」
そう言うと劇場へ引き返す。キャンディの手を掴んで足早に歩く。
「ここで待ってて」
先ほどキャンディが詰め寄った受付の前。
数分後、テリィは着替えを済ませて息を切らしながら戻ってきた。コートを羽織り、車の鍵を手にしている。
「行こう。キャンディ」
自然な口調だった。まるで昨日も会っていたかのように。
そして何のためらいもなくキャンディの肩を抱いた。濡れた身体が少し冷えていることに気づいたからだ。
「寒いだろ。体が冷えてる」
そう言いながら歩き出す。キャンディは何も言えなかった。
ただ隣を歩く。気づけばテリィが歩幅を合わせてくれていた。
やがて劇場裏の駐車場へ着く。テリィが助手席のドアを開ける。
「乗って。送っていく」
キャンディは静かに頷いた。助手席へ座る。テリィも運転席へ乗り込む。
エンジンがかかり、車がゆっくり動き出す。
その時、その様子を見つめている二人の男がいた。
受付係とマイケルだった。受付係は呆然としている。
「……本当に知り合いだったんですね」
マイケルは苦笑した。
「みたいだな」
そして遠ざかる車を見送る。
さっきまで必死に受付へ食い下がっていた女性。
その女性の名を聞いた瞬間、テリィは稽古場から飛び出して行った。マイケルは首を傾げる。
「なんなんだ、あの人」
そう呟きながらも、どこかうれしそうだった。
あんな顔のテリィを見たのは初めてだったからだ。
一方、夜のニューヨークを走る車の中では、ようやく再会した二人が言葉を探していた。
多くの時間を埋めるために。