劇場街へ辿り着いた頃には、キャンディの足はすっかり重くなっていた。
警察署を出てから一時間近く歩いただろうか。途中で雨にも降られた。激しい雨ではなかったが、傘もない。コートの裾は濡れ、ドレスの裾には泥が跳ねている。
それでも歩き続けてここまで来たのだ。今さら引き返せるはずがない。やがて目の前に見覚えのある建物が現れる。
ストラスフォード劇場。夜の灯りを浴びた劇場は眩しいほど華やかだった。
入口には観客たちが行き交い、煌びやかな照明が夜の街を照らしている。
キャンディはしばらく立ち尽くした。一年半前、テリィに案内された場所。
あの時の光景が脳裏に蘇る。そして静かに階段を上った。受付には年配の男性が座っていた。
「すみません」
キャンディは丁寧に声を掛ける。
「テリュース・グレアムさんにお会いしたいんです」
受付係は慣れた様子で顔を上げた。
「お約束はございますか?」
「あ、いえ」
「お名前は?」
「キャンディス・ホワイトです」
受付係の表情は変わらない。慣れたやり取りだった。
「申し訳ありませんが、お約束のない方のお取次ぎはできません」
キャンディは少し身を乗り出した。
「あの!私友人なんです!」
「そうおっしゃる方は毎日のようにいらっしゃいます」
穏やかな口調だったが、そこには揺るぎない拒絶があった。
「でも――」
「失礼ですが、グレアム氏は現在非常に多くの来客を抱えております。お約束のない方はお通しできません」
キャンディは言葉を失った。そうだった。テリィはもうブロードウェイのスターなのだ。考えてみれば当然だった。
「ならば、せめて名前だけでも伝えていただけませんか?」
それでも諦めきれなかった。受付係は困ったように息を吐く。
「申し訳ありません。それもできかねます」
「どうかお願いします!」
「いえ、規則ですので」
「では……テリィにこれを渡してください!」
キャンディはテリィから届いた手紙を差し出す。
「申し訳ありません。それはできません」
押し問答が続く。周囲の人々がちらりと視線を向けていた。けれどキャンディには気にしている余裕もなかった。
ここまで来たのだ。ようやく辿り着いたのだ。
それなのに会うこともできないなんて。
だがその時、少し離れた場所で、その様子を見ていた人物がいた。
マイケル・アンダーソンだった。彼も今日は稽古だけを終えて帰宅するところだった。
ところが劇場を出てから忘れ物に気づいた。仕方なく引き返してきたところである。
最初は気にも留めなかった。有名俳優の受付には、こういう客が時々現れる。珍しいことではない。だが、その女性の姿が妙に気になった。
足元は泥だらけだった。雨に濡れたドレスは決して安くなく、身なりは決して悪くない。それなのに疲れ切っている。
そして何より……その表情が印象に残った。
熱狂的なファンの顔とは違う。とにかく必死だった。まるで何かに縋るように。
その時、女性の口から聞こえた名前が耳に残った。
キャンディス。そして……
「テリィとは友人なんです!」
「テリィにこれを渡してください!」
テリィ……彼に近しい人が呼ぶ名だった。
マイケルは少し首を傾げた。だが深く考えることもなく劇場へ入った。忘れ物を取って帰るだけだったからだ。
楽屋階へ降り、自分の楽屋から忘れ物を回収し、再び帰ろうとした時だった。
廊下の向こうから見覚えのある長身が歩いてくる。
「よう」
マイケルが声を掛けた。
「まだいたのか」
テリィだった。稽古場から戻ってきたらしい。
「忘れ物だよ」
マイケルは苦笑した。二人はそのまま立ち話を始める。他愛もない会話だった。やがて話が終わり、それぞれ帰ろうとした時だった。
マイケルがふと思い出したように言う。
「そういや、さっき受付でちょっと可哀想な光景を見ちゃってさ」
テリィが何気なく振り返る。
「なんだそれ」
「いや、女の人……若い女性なんだけど」
マイケルは肩をすくめた。
「雨に濡れて泥だらけで……必死に受付へ頼んでた」
「へぇ」
テリィは興味なさそうに相槌を打つ。
「お前に会いたいとか言ってたな、ファンだったのかなぁ」
「俺に?」
「うん。でも友人だって言ってた。しかも“テリィ”とお前のことを呼んでたっけ」
テリィが少しだけ眉を上げた。マイケルは続ける。
「名前も聞こえてきてたんだ。あれは確か――」
そこで記憶を辿る。
「キャンディス、だったかな」
その瞬間だった。テリィの表情が変わった。まるで時間が止まったように。
「……何?」
低い声だった。マイケルは思わず目を瞬く。
「だから、キャンディスって――」
言い終わる前だった。
「お前!」
テリィが一歩踏み出した。
「それを先に言え!」
突然怒鳴られたマイケルは完全に面食らう。
「はぁ?」
怒られるようなことを言った覚えはない。だがテリィは説明する暇もなかった。
次の瞬間には駆け出していた。廊下を走る。階段を飛ぶように下りる。マイケルは呆然とその背中を見送った。
「……なんだよ」
ぽつりと呟く。だがテリィの姿はすでに階下へ消えていた。
受付へ向かうテリィの心臓は激しく鳴っていた。
まさか、そんなはずはない。
けれどもし本当に――キャンディなら。
一年半前、改札の向こうへ消えたあいつなら。
テリィは息を切らせながら階段を駆け下りた。
ただ一つの名前だけを胸に抱いて。