ニューヨーク駅のホームを降りた時、キャンディの胸は期待と緊張でいっぱいだった。
たった一通の手紙が、その長い時間を越えて自分をここまで連れてきた。
人々の流れに乗りながら改札を抜ける。
駅舎の高い天井の下には無数の旅人たちが行き交い、荷物を抱えた人々の声が響いていた。
キャンディは小さく深呼吸した。まずはホテルを探そう。荷物を置いて、それから劇場へ向かえばいい。
そう考えながら駅舎の出口へ向かう。
その時だった。
後ろから強い衝撃を受けた。
「きゃっ――」
身体がよろめく。誰かとぶつかったのだと思った。
だが次の瞬間、肩から提げていた荷物と手に握っていたトランクが消えていることに気づく。
振り返る。人混みの向こう。見知らぬ男が自分のトランクを抱えて走っていた。
「あっ!」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
だがすぐに理解する。盗まれた。
「待って!」
キャンディは反射的に走り出した。
人波をかき分け、男の背中を追う。
「泥棒!」
声を張り上げる。周囲の人々が振り向く。だが男は止まらない。
トランクを抱えたまま、人混みを縫うように走り抜けていく。
キャンディも必死だった。着替えも、身分証明も旅費もすべて入っている。失うわけにはいかなかった。
「誰か!」
叫んだ時だった。
近くにいた中年の男性が異変に気づき、一緒に走り出してくれた。
「そっちだ!」
二人で追いかける。しかし相手は慣れていた。
角を曲がり、人混みに紛れ、あっという間に姿を消してしまう。
キャンディは立ち止まった。
肩で息をしながら周囲を見回す。
どこにもいない。本当にいない。目の前から消えてしまった。
しばらく呆然と立ち尽くしていると、先ほど一緒に追いかけてくれた男性が息を切らしながら近づいてきた。
「大丈夫ですか?」
キャンディはゆっくり首を振った。
「トランクが……」
声が震える。男性は困ったような顔をした。
「警察へ行ったほうがいい」
「……」
「盗難届を出してください。見つかる保証はありませんが、手続きだけはしておいたほうがいい」
キャンディは小さく頷いた。男性は警察署への道順まで教えてくれた。
最後に気の毒そうな表情を浮かべる。
「ニューヨークはいい街ですが、こういう連中もいるんです」
それだけ言うと去っていった。
キャンディは一人残された。現実を整理しようとする。旅費が……その言葉が頭に浮かぶ。
そして血の気が引いた。旅費はすべてトランクの中だった。そして必要なものも全部。
残っているのはポケットに入れていた小さな小銭入れだけだった。
中を確認するが硬貨が数枚だけ。
ニューヨークへ滞在することは不可能だった。
ホテルも取れないし、食事さえ難しい。
もちろんインディアナへ帰ることもできない。
キャンディは思わず目を閉じた。
出発した時には、こんなことになるとは夢にも思っていなかった。
それでも泣いている場合ではない。警察署へ向かわなければ。
キャンディは重い足を動かした。
盗難届の手続きは思った以上に時間がかかった。
警官の質問に一つずつ答える。
ようやく手続きが終わった頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
警察署の扉を開く。夜風が頬を撫でた。
見上げると、街には無数の灯りが輝いている。
キャンディは石段の上で立ち止まった。
疲れていた。空腹も感じる。不安もある。
どうしよう。その言葉が何度も頭をよぎる。
けれど次の瞬間、自分で首を振った。
違う。そうじゃない。私は何のためにここまで来たの?
答えは一つだった。テリィに会うためだ。それ以外にない。
トランクを失ったからといって、その目的まで失ったわけではない。むしろ今の自分に残っているものは、それしかなかった。
キャンディはコートのポケットへ手を入れた。指先に紙の感触が触れる。
取り出したのは、一通の手紙だった。
テリィから届いた手紙。旅の間ずっと持ち歩いていた。
もしトランクの中へ入れていたままなら、それも失っていた。そう思うと不思議な気持ちになる。
何もかも失ったようでいて、本当に大切なものだけは残っていた。
キャンディは手紙を胸元へ押し当てた。そして静かに息を吐く。
「大丈夫」
誰に言うでもなく呟く。
「私は会いに来たんだから」
その言葉と共に、少しだけ力が戻った。
テリィが教えてくれた場所がある。毎日のように通うと言っていた稽古場、そして劇場。
そこへ行けば何かわかるかもしれない。
キャンディは歩き出した。警察署から劇場街までは決して近くない。
夜の街を横切りながら進まなければならない。けれど立ち止まる理由もなかった。
街灯の光が歩道へ長い影を落としている。人々は忙しそうに行き交う。
その中をキャンディは一人歩いた。途中でにわか雨にあったが、それでも疲れた足を動かしながら。不安を抱えながら。それでも前を向いて。
遠くに見える劇場街の灯りは、夜空の中でひときわ明るく輝いていた。
まるで誰かがそこにいると教えてくれているようだった。
キャンディは歩みを止めなかった。
その灯りの先にいる人に会うために。