あれから、テリィの頭を占めているのは別のことばかりだった。
キャンディ……再会してからというもの、気がつけば彼女のことを考えている。
劇場を歩いたこと。楽屋で話したこと。改札で別れたこと。そして最後に見せた笑顔。
どれも鮮明だった。あまりにも鮮明で、ときどき本当に再会したのだろうかと思うほどだった。
テリィは手すりに寄りかかりながら、小さく息を吐いた。
忘れていたわけではない。そんなことは一度もない。むしろ、この7年間ずっと心のどこかにいた。
苦しい夜もあった。舞台の上で迷ったこともあった。もう無理かもしれないと思ったこともある。そんな時、心の奥底にはいつもキャンディがいた。
あの日、自分の前から去っていった少女。もう二度と会えないかもしれない相手。
それでも、どこかで元気に生きていてほしいと思っていた。笑顔でいてほしいと思っていた。気づけば、その願いが自分を支えていた。
だが同時に、慣れも生まれた。キャンディのいない人生に。会えないこと、想いが届かないことに。
もう叶わないものなのだと自分に言い聞かせながら生きてきた。そうしなければ前へ進めなかった。
俳優として生きていくためには、心の奥へしまい込むしかなかった。だから触れなかった。
思い出さないようにしたわけではない。ただ、それ以上先へ進まないようにしていただけだ。
けれど再会して目の前に現れてしまった。
その瞬間、長い年月をかけて押し込めてきたものが一気に溢れ出した。
思い出の中にいたキャンディは、どこかモノクロだった。それが再会した途端、一気に色を取り戻した。
目の前で動く彼女、話して笑って、そのたびに、なぜだか不思議な気持ちになった。
本当にいる。本当に目の前にいる。そんな当たり前のことを何度も確認してしまう。夢ではないのだと確かめるように。
我ながら馬鹿みたいだと思う。それでも、そう思わずにはいられなかった。
そして何より驚いたのは、キャンディが大人になっていたことだった。
もちろん当たり前だ。八年近い歳月が流れている。自分だけが年を重ねたわけではない。
それでも実際に会うと、時間の流れを否応なく感じさせられる。
くるくる変わる表情は昔のままだった。笑う時の顔も、人の話を聞く時の真っ直ぐな瞳も変わらない。
だが、どこか違った。話し方は落ち着き、仕草には柔らかさがあった。活発な少女ではなく、一人の女性になっていた。
肩口まで伸びた髪を耳へかける仕草を見た時など、その変化を強く感じた。
風に揺れる横髪、伏せられた睫毛、ふとした横顔。
そんな何気ない瞬間に、胸が妙にざわついた。
テリィは思わず苦笑する。
自分は俳優だ。これまで多くの女優たちと共演してきた。
世間が美しいと騒ぐスター女優もいたし、男たちの憧れの的になっている女性たちとも仕事をしてきた。
けれど、その誰かを特別な感情で見たことは一度もない。
以前、裏方のスタッフに「あんな綺麗な女優と毎回ラブシーンをやっていたら好きにもなるだろ」と言われたことがある。
だが、正直意味がわからなかった。
ケビンやマイケルが共演女優の話で盛り上がる時も同じだった。
綺麗だと言われればそうなのだろうとは思う。だが、それだけだった。顔立ちが整っている。芝居が上手い。その程度の認識しかなかった。
ところがキャンディは違った。笑顔を思い出すだけで胸が温かくなる。改札で遠ざかる姿を思い出せば胸が痛む。
楽屋で楽しそうに笑っていた顔を思い出せば、また会いたくなる。自分でも呆れるほどだった。
そして何より再会した時、思わず口にしそうになった言葉がある。
――きれいになったな。
危うくそのまま言うところだった。
寸前で飲み込んだものの、あとになって自分自身が驚いた。そんな言葉を口にしようとしたことに。
共演女優に対する社交辞令ではなく、心からそう思ったからこそ出かかった言葉。
テリィは夜空を見上げた。
十年前、この船で初めてキャンディと出会った。
どうしようもなく息苦しかった自分の前へ、突然現れた少女。
別れたあの日からは7年。まさか今になって、こんな気持ちが甦るとは思わなかった。
心の奥へしまい込んだ、届かない想いだと諦めたはずなのに。
けれど再会は、そのすべてを呼び覚ましてしまっていた。
イギリスでは夢の舞台が待っている。
それなのに今の自分は、俳優としての未来よりも、一人の女性の笑顔ばかりを思い出している。
テリィは苦く笑った。そして誰もいない夜の海へ向かって、小さく呟く。
「参ったな……」
さらに、その夜だけではなかった。
船旅の間、気がつけばテリィはキャンディのことばかり考えていた。
朝、甲板へ出ても、食堂で食事をしていても、キャビンで台本を開いていても、ふとした瞬間に思い浮かぶのは、いつも彼女だった。
劇場で笑っていた顔、真剣に話を聞く横顔、改札の向こうで手を振っていた姿。
思い出すたびに胸が温かくなり、同時に少しだけ苦しくなる。
それは懐かしさだけではなかった。
再会の余韻だけでもなかった。
イギリスへ近づくにつれ、テリィは少しずつ理解し始めていた。
自分が抱いている想いは、昔の恋の残り火などではないということを。
思い出に縋っているわけでも過去を美化しているわけでもない。
再会した彼女を見て、それでもなお惹かれたのだ。
7年という歳月を経た、別々の人生を歩いた先で大人になった今のキャンディを見て、改めて心を奪われたのだ。
その事実を認めた時、不思議なくらい心は静かだった。
もう誤魔化さない。
もう目を逸らさない。
ならば、答えはひとつだった。
一年後。もしこの挑戦を最後までやり遂げることができたなら。もし再び彼女の前に立てる日が来たなら。
その時は伝えよう。ずっと言えなかったことを。心の奥にしまい続けてきた想いを。
そのために手紙を書こう、もう二度と後悔しないために。
テリィは窓の外に広がる海を見つめた。
水平線の彼方には、これから挑む新しい舞台が待っている。
そしてその先には、もう一度会いたいと願う人がいる。
船は静かにイギリスへ向かっていた。
テリィもまた、自分の未来へ向かって歩き始めていた。