待ちに待った休日の朝だった。先に目を覚ましたキャンディは、窓の外を見て微笑んだ。青空だった。
今日は自由の女神へ行く。数日前から楽しみにしていた予定だ。
朝食を済ませると、二人は地下鉄を乗り継いでマンハッタン南端の埠頭へ向かった。観光客で賑わう船着場には様々な言葉が飛び交っている。
家族連れや旅行者に学生らしい若者たち。キャンディは周囲を見回しながら楽しそうに歩いていた。
「思ったより人が多いのね」
「ニューヨークで一番の観光地だからな」
テリィは笑う。
「ニューヨークへ来て一度も見ないで帰る観光客はいないだろ」
「私がその一人だったかもよ」
「だから連れて来た」
当然のように言う。その横顔を見て、キャンディは少しうれしくなった。
忙しい毎日の中でも、ちゃんと覚えていてくれたのだ。自分が行きたいと思っていた場所を。
フェリー乗り場が見えてきた頃だった。風が変わった。テリィがふと空を見上げる。
「ん?」
キャンディもつられて見上げる。さっきまで青かった空に灰色の雲が広がり始めていた。
そして。ぽつりと頬に冷たい感触が落ちる。
「雨?」
次の瞬間には、ぽつぽつと雨粒が増え始めた。
観光客たちもざわめき始める。傘を開く人、建物の軒先へ駆け込む人。キャンディとテリィも近くの屋根のある場所へ避難した。
だが雨脚はどんどん強くなる。待っても弱まる気配はない。キャンディは苦笑した。
「残念ね」
「そうだな」
テリィも窓の外を見る。せっかくの休日だが、天気ばかりはどうにもならない。
しばらく考えていたテリィだったが、やがて何か思いついたように立ち上がった。
「じゃあ、行こう。予定変更だ」
「どこへ?」
テリィは少しだけ笑った。
「俺の行きつけ」
地下鉄を乗り継ぎ、到着したのはマンハッタンの中心部だった。
雨はまだ降っている。
通りの向こうに見えた建物を見上げて、キャンディは思わず目を丸くした。
「大きい……」
煉瓦造りの重厚な建物。大きなショーウィンドウ。
何階も続く売り場。
ニューヨークでも有数の大型書店だった。
店内へ入ると、紙の匂いが広がる。
高い天井に整然と並ぶ本棚、数え切れないほどの本。
キャンディは思わず辺りを見回した。
「すごいわ……」
「だろ?」
どこか得意そうな声だった。
「役作りで困ったら、とりあえずここへ来る」
テリィは迷うことなく歩き始める。
まるで自分の家みたいだった。
棚を見れば、どこに何があるのか把握しているらしい。
キャンディは少し驚いた。
「そんなに来てるの?」
「まあね。気が付いたら一週間毎日来てたことがあった」
テリィは一冊の本を抜き取る。
「でもそれも役によるけどな」
ページをめくる手つきに迷いがない。
「たとえば?」
「そうだな……」
彼は考えながら本を戻した。
テリィは少し考え込むように視線を宙へ向けた。
「シェイクスピアなら当時の歴史を調べるだろ」
そう言いながら親指を折る。
「貴族の役なら、その時代の暮らしや習慣も読む」
人差し指が折られる。
「医者なら医学書」
中指を折る。
「兵士なら戦争の記録」
薬指を折る。
「詩人なら詩集かな」
最後に小指を折りながらそう言った。
キャンディは思わず瞬きをした。
そこまでやるとは思っていなかった。
「全部読むの?」
「さすがに全部は無理だ」
テリィは苦笑する。
「でも、知らないより知ってる方がいいと思うから」
そう言って近くの棚から一冊の詩集を抜き取った。
ぱらぱらとページをめくる。
自然な仕草だった。
きっと何度も繰り返してきたのだろう。
キャンディは本棚を眺めながら思った。
新聞や劇評で語られるのは華やかな部分ばかりだ。
主演、喝采、絶賛。けれど、その裏にはこういう時間がある。
誰も見ていない場所で本を読み、調べて考えを積み重ねる時間。
舞台の上で輝くための努力。
「どうした?」
テリィが振り返る。
キャンディは小さく首を振った。
「なんでもない」
そして少しだけ笑った。
「ただ、すごいなと思って」
「何が?」
「テリィが」
すると当の本人は不思議そうな顔をした。
「俺が?」
まるで褒められた意味がわからないと言いたげだった。
その反応がおかしくて、キャンディは思わず吹き出した。
たぶん彼はこれからも変わらない。
努力することを特別だと思わないまま。
好きだから続けているだけだと言うだろう。
それでも、その積み重ねが今のテリュース・グレアムを作っているのだと、キャンディは改めて知ったのだった。