雨脚はなかなか弱まらなかった。
窓の外では灰色の雲がマンハッタンの空を覆い、通りを行き交う人々が足早に雨を避けている。
だが店内は静かだった。
高い本棚に囲まれた空間には紙と革の匂いが漂い、時間の流れさえゆるやかに感じられる。
キャンディはそんな店内をテリィの後ろを付いて歩くと、話の通りテリィが本棚の前で足を止めるたびに、手に取る本の種類が実に幅広いのだ。
シェイクスピア全集。
イギリスやフランス史、アメリカ史。
ヨーロッパの王侯貴族に関する研究書。
さらに詩集や小説。
彼は気になった本を抜き出しては目を通し、また棚へ戻していく。
その姿は、セントポール学院の図書室の彼そのままだった。
「本当に好きなのね」
思わずそう言うと、テリィは振り返った。
「あぁ、本は好きだ」
学生時代からテリィは本が好きだった。
詩を読み、詩を書き、授業とは関係のない本まで夢中になって読んでいた。
キャンディだって知っている。
けれど一緒に暮らし始めてからは、彼がどれほど読書を続けているのかを知った。
「昔から好きだったけど、今もこんなに読むとは思わなかったわ」
テリィは少し笑った。
「読む理由が増えただけだ」
そう言って手にしたのは、エリザベス朝時代に関する一冊だった。
「シェイクスピアをやるなら、その時代を知っておきたい」
次に手に取ったのは貴族社会についての本だった。
「王侯貴族の役なら、どういう教育を受けて育ったか知っておきたい」
さらに軍事史の棚へ移る。
「軍人なら戦場を知りたいし、政治家なら時代背景を知りたい」
テリィは本の背表紙へ視線を向けたまま話を続けていた。
どの時代の人間なのか。
どんな教育を受けてきたのか。
何を見て育ち、何を信じて生きてきたのか。
役について語る時の彼は、いつもより少し早口になる。
青灰色の瞳は生き生きと輝き、次から次へと言葉が溢れてくる。
キャンディはそんな横顔を見つめながら、自然と笑みを浮かべていた。
こういうところが好きなのだと思う。
芝居の話をしている時のテリィは、本当に楽しそうだった。
誰よりも真剣で、誰よりも夢中になっている。
だからこそ人を惹きつけるのだろう。
舞台の上で輝く姿も好きだが、けれど、その輝きがどれほどの努力の上に成り立っているのかを知った今は、以前よりもっと尊敬していた。
そして同時に、少しだけ惚れ直してしまう。
本人はきっと気づいていない。
こんなふうに目を輝かせて語るたびに、キャンディが何度でも恋に落ちていることを。
キャンディは感心しながら聞いていた。
彼はただ台詞を覚えているのではない。
役の人生ごと理解しようとしているのだ。
「でも、そのあたりはテリィの方が詳しいんじゃない?」
キャンディが言うと、テリィは少し首を傾げた。
「何が?」
「貴族の暮らしとか」
彼は一瞬だけ笑った。
「知ってるのと調べるのは別だ」
そう言って本を閉じる。
「俺が育った家と、役の人間が育った環境が同じとは限らない」
その答えが妙に彼らしかった。
出自に頼らず、経験に甘えず、知っているつもりにならない。
だから調べて読み、それらを積み重ねる。
「そこまで読むの?」
「読まないとわからないだろ」
テリィは不思議そうな顔をする。
「台本には全部書いてないからな」
その言葉に、キャンディは改めて考えさせられた。
観客が目にするのは舞台の上の数時間だけだ。
だが、その数時間のために彼は何日も、何週間も、時には何か月も準備を重ねている。
新聞の劇評には『圧倒的な存在感』『卓越した表現力』と書かれることがある。
けれど、その裏にある努力について語られることは少ない。
テリィは別の棚から一冊の詩集を抜き取った。
「キーツ?」
「好きなんだ」
珍しく即答だった。
「シェリーも読むし、ロングフェローも読む。詩は台詞の勉強になるからな」
キャンディは改めて思った。
舞台の上で喝采を浴びる俳優テリュース・グレアムは、才能だけでそこに立っているわけではない。
誰も見ていない場所で本を開き、調べ、考え続ける時間がある。
その積み重ねが今の彼を作っているのだ。
窓の外では、まだ夏の終わりの雨が降り続いていた。
けれどキャンディは、その雨に感謝したくなっていた。
もし自由の女神へ向かう船に乗っていたら、今日のこんな時間はなかったかもしれない。
知らなかったわけではない。
けれど改めて知ることができた。
自分の夫が、どれほど真摯に芝居と向き合っている人なのかを。