ストラトフォード・アポン・エイボンの朝は、ニューヨークとは違っていた。窓を開けると、湿った風が頬を撫で、遠くで教会の鐘が鳴っていた。テリィは静かに目を閉じる。その音を聞いていると、自分が本当にイギリスへ戻ってきたのだと実感した。
シェイクスピアが生まれた町。演劇人にとっての聖地。そして今の自分にとっては戦場だった。
テーブルの上には昨日渡された台本が置かれている。
『Romeo and Juliet』
表紙を見つめながら、テリィは小さく息を吐いた。オーディションは終わったが、本当の勝負はここからだった。
上位三名のうちその中に自分の名前が残った。それだけでも十分な成果だと、ニューヨークなら誰もが言っただろう。けれど、テリィはそう思っていなかった。ここまで来た以上、目指すものは一つしかない。ロミオだ。
SMTの稽古場へ入ると、すでに何人もの俳優たちが集まっていた。笑い声や挨拶、英国訛りの飛び交う会話の中をテリィは静かに室内を見回した。
そしてすぐに見つける、窓際で脚本を読んでいる男を。その男は、ダニエル・ウェスト。ロンドンで絶大な人気を誇る若手俳優。
もう一人、剣術指導者と話している長身の男は、エドワード・ハートリー。こちらも主演経験豊富な実力派だった。
どちらも今回の本命、業界紙では最終的にどちらかがロミオを演じるだろうと言われている。そこへアメリカから来た俳優が割り込んできたのが、テリィだった。
「おはよう」
声がした方に振り返るとダニエルがいた。柔らかな笑顔を見せているが、目だけは笑っていない。
「昨日の発音には驚かされたよ」
「ありがとう」
だが次の言葉には僅かな棘があった。
「シェイクスピアは簡単じゃない」
「知ってる」
「そうかな?」
テリィは何も答えなかった。視線だけを返す。ダニエルもそれ以上は言わなかった。二人の間に静かな緊張が流れる。
そのとき、稽古場の扉が開き、演出家が入ってくる。一瞬で空気が変わった。全員が口を閉じる。
「諸君、おはよう」
演出家は台本を机へ置いた。
「まず最初に伝えておく」
視線が三人へ向く。ダニエル、エドワード、そしてテリィ。
「ロミオ候補は三名だ。だが、来週末までに一名を外す」
室内が静まり返った。わかっていたことだった。それでも改めて宣告されると重みが違う。
「残る二名で主演と代役を争う」
演出家は続ける。
「人気も経歴も関係ない」
その言葉に数人が顔を上げた。
「私が見たいのはロミオだ」
ゆっくりと一人ずつ見渡す。
「誰が最も愛し」
「誰が最も苦しみ」
「誰が最も死ねるか」
その言葉が稽古場へ落ちる。テリィの胸が小さく揺れた。
誰が最も死ねるか。ロミオは恋愛劇の主人公ではない。悲劇の主人公だ。最後には愛する人を失う。絶望しそして死を選ぶ。演出家は台本を開いた。
「今日はバルコニーシーンから始める」
ざわりと空気が動く。ここにいる誰もが俳優として一定以上の実力を認められている。だからこそ、露骨な敵意や足の引っ張り合いはない。しかし、その代わりに静かな競争意識が空気の中へ溶け込んでいた。
今日から始まる稽古は、単なる作品づくりではない。主演を決めるための選考でもあった。
演出家の合図で最初に中央へ進み出たのはダニエルだ。ロンドン演劇界で最も将来を期待されている若手俳優の一人。舞台へ立った瞬間に空気を変える華やかさがある。
ジュリエット役の女優がバルコニーに見立てた平台へ立つと、ダニエルは自然な動作で顔を上げた。
「だが静かに。あの窓から漏れる光は何だ?」
美しい発声だった。力みがなく、それでいて観客席の最後列まで届く声。若者らしい情熱と、恋に酔う危うさが同居している。さすがだ、とテリィも思った。
ダニエルの芝居が終わると、演出家は小さく頷いただけだったが、それだけで十分だった。周囲の反応を見ても、彼が高く評価されていることは明らかだった。
続いてエドワードが演じた。こちらはダニエルとは対照的だった。情熱よりも品格。若さよりも深み。同じロミオでありながら、そこには貴公子のような気品が漂っていた。
どちらが優れているという話ではない。方向性が違うのだ。演出家も興味深そうに腕を組みながら見つめていた。そして、最後に名前が呼ばれた。
「テリュース・グレアム」
静まり返った稽古場の中、テリィはゆっくり立ち上がった。視線が集まる。アメリカから来た俳優。オーディションで審査員を驚かせた男。それでもなお、多くの者にとっては未知数の存在だった。
「誰が最も愛し、誰が最も苦しみ、誰が最も死ねるか」
演出家の言葉が耳の奥に残っている。ロミオは恋愛劇の主人公ではない。悲劇の主人公だ。恋を知り、愛を知り、そして絶望を知る。その果てに死を選ぶ男である。
ジュリエット役の女優が微笑みかけたが、テリィはそれに気づかなかった。視線はもっと遠くを見ていた。高い窓から差し込む朝の光。木々の葉を揺らす風。セントポール学院の春の日。木の上で笑う少女。
「ターザンそばかす」
そう呼ぶたびに怒った顔をしていた少女。思い出そうとしたわけではない。だが、恋する若者を演じようとした瞬間、心の奥底に沈んでいた記憶が静かに浮かび上がってきた。テリィは顔を上げた。
「だが静かに。あの窓から漏れる光は何だ?」
その瞬間だった。稽古場の空気がわずかに変わった。誰かが顔を上げ、演出補佐が手を止める。
ダニエルもエドワードも無意識にテリィへ視線を向けていた。声量が特別大きいわけではなく、派手な演技をしているわけでもないのに、なぜか目を離せなかった。
「東だ。そしてジュリエットは太陽だ」
テリィは演じていることを忘れていた。見せようとも評価されようとも思っていない。ただ、その先にいる誰かを見つめていた。
手を伸ばしたくなるほど愛しくて、けれど決して届かない存在を。
その視線の熱に、ジュリエット役の女優が思わず息を呑む。本当に愛されているような錯覚を覚えたのだ。芝居の技術では説明できない何かがそこにはあった。
やがて場面が終わる。しかし誰もすぐには口を開かなかった。短い沈黙が流れる。その静けさを破ったのは演出家だった。
「もう一度」
テリィが顔を上げる。演出家はじっと彼を見つめていた。
「同じ場面をやってくれ」
稽古場がざわついた。ダニエルもエドワードも一度だけだった。もう一度求められたのはテリィだけである。だが演出家の表情は厳しかった。
「先ほどの芝居は素晴らしかった」
そう言ってから、彼は小さく首を振った。
「だが、あれはロミオではない」
静まり返る稽古場の中で、その言葉だけがはっきり響いた。
「私が見たのはロミオではなく、君自身だ」
テリィの胸がわずかに揺れる。見抜かれていた。ほんの数分の芝居で。
演出家は続けた。
「だからこそ心を動かされた。だが舞台は一夜限りではない。俳優は毎日同じ感情を再現しなければならない」
その視線は鋭かった。
「私は君の人生を見たいわけじゃない」
静かな声だった。
「ロミオを見たいんだ」
テリィはしばらく黙っていた。だがやがて小さく頷く。言いたいことは理解できた。先ほど舞台に立っていたのは俳優ではなかった。ただ一人の男、だからこそ危うかった。だからこそ美しかった。しかし主演に必要なのは、それを再現できる技術なのだ。
テリィは再び中央へ歩き出した。
今度は思い出に頼らない。自分自身にも頼らない。
俳優として、ロミオとして、本当の勝負が、今始まろうとしていた。