一幕と二幕の間の休憩時間。劇場のロビーは熱気に包まれていた。開演前の落ち着いた空気はもうない。観客たちは口々に舞台の感想を語り合っている。
「本当にブロードウェイから来た俳優なのか?」
「信じられない」
そんな声があちこちから聞こえてくる。演劇好きの老婦人たちも、ロンドンから来た評論家たちも、地方から訪れた観客たちも話題は同じだった。
ロミオ=テリュース・グレアム。
アレクサンダーはロビーの片隅で紅茶を手にしていた。隣には学院時代の同級生たちがいる。だが誰も紅茶の味など分かっていなかった。それほど舞台の余韻が残っていた。
「驚いたな」
弁護士になった同級生が言う。
「正直、もっと技巧的な芝居を想像していた」
「私もだ」
銀行家になった男も頷く。
「だが違った」
アレクサンダーは静かに笑った。
「そうだな」
そこにいたのは技巧ではなかった。ロミオだったのだ。
そして、二幕が始まる。有名なバルコニーの場面。観客席の空気が再び変わる。誰もが知っているロミオとジュリエット。シェイクスピア史上最も有名な恋人たち。
何度も上演されてきた場面であり、何百回も演じられてきた場面だ。だがその夜の客席は異様なほど静かだった。
ロミオが現れジュリエットを見上げる。そして言葉を紡ぐその瞬間。劇場から音が消えた。
観客は誰一人として動かない。咳払い一つ聞こえない、舞台に吸い込まれていた。
舞台は進む。恋、秘密の結婚、そして悲劇の影。観客たちは笑い、息を呑み、そして少しずつ物語の結末へ引きずられていく。誰もが結末を知っている。それなのに、どうか助かってくれと思ってしまう。それが優れた悲劇だった。
三幕。ティボルトとの決闘。
親友の死の怒り。追放。ここから物語は一気に暗転する。ロミオの表情も変わる。若者だった男が初めて運命へ抗う。客席の空気も重くなっていく。
笑い声は消えた。代わりに張り詰めた沈黙が広がる。
演出家は舞台袖からそれを見ていた。長年芝居を作ってきた。成功も失敗も知っている。だから分かる。今夜の客席は特別だった。
観客が物語へ落ちている。ロミオとジュリエットの世界へ。完全に。
やがて最終幕。墓所の場面が近づく。舞台裏の空気が変わった。俳優たちも分かっている。
ここが勝負だ。ここで観客の心を掴めなければ意味がない。なん週間も積み上げたものが試される。
テリィは静かに目を閉じた。不思議だった。怖くも緊張もない。ただロミオがそこにいる。演じるのではない。生きるだけ、それだけだ。
客席では誰もが身を乗り出していた。アレクサンダーも。評論家たちも。学院時代の同級生たちも。そして名も知らぬ観客たちも。誰もがロミオを見つめている。その先に待つ結末を知りながら、それでも目を離せなかった。
舞台は最も美しく、最も残酷な場面へ向かっていく。そして、ロミオの運命が決まるその瞬間へ。
劇場は静まり返っていた。何百人もの観客がいる。まるで劇場全体が息を止めているようだった。舞台の上には墓所。
そしてロミオ。愛する人を失ったと思い込んだ若者。その姿を観客たちは見つめていた。アレクサンダーも知らずに拳を握っていた。そこにはロミオしかいなかった。
愛する人を失った男、未来を失った男、世界を失った男。その絶望だけがあった。
ジュリエットへ近づく。震える指先、触れた頬、語りかける声。それは決して大げさな演技ではなかった。観客の胸へ届く。
客席の最前列で、一人の婦人がハンカチを握り締めていた。隣の夫人も同じだった。誰も声を上げず、ただ見つめている。
ロミオが最後の言葉を紡ぐ。静かに、でも優しく。
まるで眠りにつく恋人へ語りかけるように。そして毒杯を口にする。
劇場の空気が凍る。誰も動かない。観客だけではない。舞台袖の俳優たちでさえ息を止めていた。何度も稽古した結末も知っている物語。それでも見入ってしまう。
ロミオが倒れる。静かに、本当に静かに。その姿はどこか安らかだった。苦しみから解放されたようにも見えた。だから余計に悲しい。
そしてジュリエットが目を覚ます。観客席のあちこちから小さな息が漏れる。駄目だ、間に合わない。
誰もが知っている。知っているのに。どうか間に合ってくれと願ってしまう。
ジュリエットの叫び。絶望と悲しみ。そして別れ。
物語は最後の瞬間へ向かっていく。
アレクサンダーは目を閉じたくなった。だができなかった。目を逸らせなかった。
やがて舞台は終わる。キャピュレット家とモンタギュー家の和解。遅すぎた平和、若い命の代償、悲劇の終幕。
そして暗転、静寂。劇場全体が動かない。誰も拍手をしない。いや、できなかった。物語から戻れない。観客たちはまだヴェローナにいた。まだ墓所にいた。
まだロミオとジュリエットを見つめていた。
やがて一人が立ち上がった。それが始まりとなった。拍手が広がる。波のように劇場中へ
客席が総立ちになった。割れんばかりの拍手と歓声とスタンディングオベーション。
舞台袖では、俳優たちは顔を見合わせていた。
呆然としている者や涙ぐんでいる者。信じられないという顔をしている者もいた。そして誰も言葉が出なかった。
演出家は腕を組んだまま客席を見ていた。表情は変わらない。だが、その目だけが少し柔らかい。舞台監督が小声で言う。
「やりましたね」
演出家はしばらく何も言わなかった。そして静かに答える。
「ああ」
それだけだった。
やがてカーテンコールが始まり、俳優たちが舞台へ出る。拍手は止まらずむしろ大きくなる。
ロミオとジュリエットが前へ出た瞬間。さらに大歓声が上がった。
アレクサンダーは拍手を送りながら思う。学院時代、誰が想像しただろう。あの問題児がここまで来ることを。
舞台の中央。テリィは眩しい照明の中で客席を見渡した。満員の観客。総立ちの拍手。鳴り止まない歓声。その光景が目の前に広がっている。だが不思議と現実感がない。
ただ一つだけ分かるのは、ここへ来るまでの道は間違っていなかった。そしてこの瞬間に思い出すのは厳しい稽古の日々ではなく、柔らかく笑いかけるキャンディだった。そのことだけは確かだった。
拍手はいつまでも続いていた。まるで新しいロミオの誕生を祝福するように。
そして翌朝、イギリス中の新聞が、この夜のことを報じることになる。