幕が上がった瞬間、劇場の空気が変わる。客席にいた誰もが、それを感じていた。

もちろん最初からロミオが登場するわけではない。

舞台はヴェローナの街から始まる。

モンタギュー家とキャピュレット家。長く続く対立。若者たちの衝突。

物語はゆっくりと動き始める。

だが観客たちは知っている。今日の主役が誰なのかを。誰もがその瞬間を待っていた。


アレクサンダーもまた客席から舞台を見つめていた。隣には学院時代の同級生が二人いる。

ロンドンで弁護士をしている男と銀行家になった男。どちらも記事を読んで観に来た。

半ば好奇心だった。本当にあのテリィなのか、確かめたい気持ちもあった。


「出るぞ」

誰かが小さく呟く。客席が静まり返る。

そしてロミオが舞台へ現れた。


アレクサンダーは思わず息を止めた。

隣の男も動かない。もう一人も同じだった。

そこに立っている男は確かにテリィだった。

顔も声も知っている。学院時代の面影もある。

だが何かが違った。そこにいたのは、ロミオだった。

ただ、それだけだった。


物語は進んでいく。

ロザラインへの想いを語る若者。

恋に悩み、友人と笑い合い。未来を知らない少年。

その姿は驚くほど自然だった。

演技をしているように見えない。

生きているように見える。


アレクサンダーは思い出していた、学院時代のことを。

授業中に本を読んでいた少年。

教師に反発していた少年。

退学していった少年。

まさかここに来るとは思わなかった。

誰も思わなかった。


「すごいな……」

隣の男が呟く。誰に向けた言葉でもない。純粋な感想だった。

アレクサンダーも同意する。

すごい。それ以外に言葉が見つからない。


そして舞踏会の場面が訪れる。

音楽が流れ、人々が踊る。

その中でロミオの視線が止まる。

ジュリエットだった。


劇場の空気が変わる。

それまで聞こえていた衣擦れの音も消える。

誰も動かず、誰も咳払いをしない。

観客全員が舞台へ引き込まれていた。

ロミオがジュリエットを見る。

ただ、それだけ。だが、その視線だけで十分だった。

恋に落ちたのだと分かる。説明も台詞もいらない。

観客はその瞬間を見た。


「なるほどな」

アレクサンダーが小さく呟く。隣の男が振り向く。

「何がだ?」

「主演に選ばれた理由だ」

視線は舞台から離さない。

「分かる気がする」

それ以上の説明は必要なかった。


一幕が終わり暗する。

そして一瞬の静寂。その直後だった。

客席から拍手が起こる。

自然発生だった。誰かが始めたわけではない。抑えられなかったのだ。

観客たちの手が勝手に動いた。

それほどまでに舞台は観客を掴んでいた。


舞台袖。

テリィは呼吸を整えていた。

まだ半分だ。物語はこれから悲劇へ向かう。

本当に難しいのはここからだった。

だが客席の反応は聞こえていた。

拍手も歓声も聞こえていた。

それでも不思議と浮かれなかった。

ロミオがまだ終わっていないからだ。


少し離れた場所で演出家が腕を組んでいた。

表情は変わらない。だが長年一緒に仕事をしてきたスタッフには分かった。

機嫌が良い。しかもかなり。


「どうです?」

舞台監督が小声で聞く。演出家は客席の方を見る。

そして小さく言った。

「ようやくだ」

「何がです?」

演出家は舞台袖のテリィを見る。

「ロミオになった」

それだけだった。


その頃、遥か海の向こう。

インディアナ州では、キャンディはまだそのことを知らない。

今まさにテリィが英国の観客を魅了し劇場が熱狂に包まれていることも。

だが、その舞台は確かに始まっていた。

長い年月をかけて辿り着いた場所、テリュース・グレアムの新しい物語が。

そしてロミオとジュリエットの悲劇は、これから最も美しく、最も残酷な場面へ向かっていく。