初日の朝は驚くほど静かだった。

空は高く晴れ渡り、ストラトフォードの街はいつもと変わらない一日を始めている。だが、その静けさとは裏腹に、劇場の中は朝から慌ただしかった。

大道具の最終確認、衣装の点検。照明合わせ。

舞台監督の声が飛び交う。誰もが落ち着かない。それは俳優たちも同じだった。


楽屋の鏡の前で、テリィは黙って衣装を整えていた。ロミオの衣装。何度も袖を通したはずなのに、今日は少し違って見える。

本番だからだろうか。だが不思議と緊張はなかった。

もちろん平静ではない。胸の奥には静かな熱があるが震えるような恐怖ではなかった。

むしろ、ようやくここまで来たという感覚に近かった。


「あなたは静かなのね」

声がして顔を上げる。ジュリエット役の女優だった。彼女も衣装姿だ。いつもより少し緊張しているように見える。

「うるさい方がよかったか?」

「いいえ」

彼女は笑う。

「その方が怖いもの」

思わず二人で笑った。その笑いだけで少し肩の力が抜ける。


開演一時間前。舞台袖には独特の空気が漂っていた。

誰もが自分の役と向き合っている。台詞を確認する者。目を閉じて集中する者。落ち着かず歩き回る者など様々だった。

そんな中で、演出家がゆっくり姿を現した。

自然と全員が集まる。最後の挨拶だった。


演出家は俳優たちを見渡した。一人ひとりの顔を見る。そして静かに言った。

「ここまでよく来た」

誰も口を開かない。

「もう私の仕事は終わりだ」

その言葉に何人かが顔を上げる。演出家は小さく笑った。

「今日からは君たちの作品になる」

舞台袖が静まり返る。

「失敗してもいい」

誰も予想していなかった言葉だった。

「台詞を噛んでもいい」

少し笑いが起こる。

「転んでもいい」

さらに笑いが広がる。だが次の言葉で空気が変わった。

「ただ、ヴェローナを生きろ」

演出家は静かに続けた。

「ロミオとして」

「ジュリエットとして」

「それぞれの役として」

その声にはこれまでの全てが込められていた。

何週間もの稽古、何百回ものやり直し、積み重ねてきた時間。

すべてがその一言に集約されていた。


「以上だ」

演出家はそう言うと下がった。

拍手もなく、大げさな激励もない。だが、それで十分だった。

俳優たちは静かに散っていく。自分の場所へ。自分の役へ。


客席では観客が席に着き始めていた。ロンドンから来た演劇関係者、評論家。地元の観客。そして学院時代の同級生たち。アレクサンダーもその中にいた。

劇場は満員だった。ざわめきが天井へ昇っていく。

誰もが期待している。新しいロミオを。ブロードウェイから来た俳優を。そして、どんな舞台になるのかを。


舞台袖。開演間近。

テリィは一人で立っていた。

衣装の感触、舞台の匂い。遠くから聞こえる観客のざわめき。その全てを感じながら静かに目を閉じる。

不思議だった。ここへ来るまでのことが次々と思い出される。

ニューヨーク。オーディション最終選考。

演出家の怒鳴り声。エドワードとの競争。アレクサンダーとの再会。

ふと、ある光景が浮かぶ。

ニューヨークのホテルでの偶然の再会。

劇場案内の一日そして別れ際。

「頑張ってね」

そう言って笑った金色の髪。

テリィは小さく息を吐いた。

遠い場所からでも応援してくれている気がした。

そんな気がした。


「五分前!」

舞台監督の声が飛ぶ。全員の表情が変わる。

いよいよだ。


「一分前!」

劇場の照明が落ちる。客席のざわめきが静まっていく。世界が変わる瞬間だった。


テリィは舞台袖から客席を見た。

満員の観客。息を潜める空気。

期待と緊張。その全てが伝わってくる。

だが不思議と怖くなかった。

ロミオはもうそこにいた。何週間も追い続けた役。

ようやく自分の中へ入ってきた役。あとは生きるだけだった。


序曲が始まる。舞台監督が最後の合図を送る。

俳優たちが動き出す。

そして――Shakespeare Memorial theater版『ロミオとジュリエット』の幕が上がった。