ロンドンの朝は慌ただしかった。
議会記事の校正や外交面の確認。昼の会見準備に政治部記者の仕事は相変わらず忙しい。
そんな中、アレクサンダー・ウォレスは机の上へ置かれた新聞を何気なく手に取った。
政治面を流し読みし、経済欄をめくる。
そのまま無意識に文化面へ視線を落とした時だった。
彼の手が止まる。大きな見出し。
SMT次回公演『ロミオとジュリエット』
主演決定・テリュース・グレアム
その下には写真が掲載されていた。
アレクサンダーは思わず記事を見返した。
一度、二度、そして三度。
「……まさか」
小さく呟く。
写真の男は二十代後半になっていた。少年時代の面影は薄れている。
だが見間違えるはずがない。
セントポール学院で同じ時代を過ごした男。
教師たちを困らせ、上流階級の常識を嫌い、そしてある日突然学院を去った男。
テリュース・G・グランチェスター。
グランチェスター公爵家の長男だった。
アレクサンダーは記事を読み込んだ。
ブロードウェイで活躍、ニューヨークで主演経験多数ありSMTオーディションを突破しロミオ役を獲得した。
そこに書かれている内容はどれも事実なのだろう。
だが彼の興味を引いたのは別の部分だった。
『テリュース・グレアム』
その名前だった。
「グレアム、か……」
思わず苦笑する。
アメリカへ渡ったという話は聞いていた。
俳優になったという噂も。
だが、その後の足取りは知らない。
いつしか名前を聞かなくなり、記憶の奥へ沈んでいた。
それが今になって突然、英国演劇界の中心へ現れた。
しかもSMTの主演として。
アレクサンダーは椅子へ深く座り直した。
興味が湧いた。
誰に頼まれたわけでもない。
記事にするつもりもない。
ただ純粋に知りたくなった。
あの問題児が、どうやってここまで来たのか。
それから数日。政治部の仕事の合間を縫って調べ始めた。
ニューヨークの記事や劇評。演劇誌、過去の新聞。
そしてブロードウェイ関係者への問い合わせ。
調べれば調べるほど驚かされる。
決して公爵家の名前を利用していない。
むしろ隠しているとさえ思える。
どの記事にもグランチェスターの名は出てこない。
そこにあったのは、ただ一人の俳優の経歴だった。
「まさか役者になるとは」
思わず漏れる。
学院時代からシェイクスピアに興味があったことは、知っていた。だが誰も俳優になるとは思っていなかった。
そしてまさかのSMTの主演だ。
数日後。
アレクサンダーはある人物を訪ねていた。
SMT理事会とも繋がりのある旧知の友人だった。
同じく貴族の子息で演劇界にも顔が利く男である。
「珍しいな」
友人が笑う。
「政治部の君が文化の話とは」
アレクサンダーは新聞の切り抜きを机へ置いた。
ロミオ役決定の記事だった。
「この男を知っているか?」
友人は写真を見る。
「ああ。今話題のアメリカ人俳優だろう」
その答えにアレクサンダーは小さく笑った。
「アメリカ人ではないがな」
そして静かに続ける。
「これは、テリュース・G・グランチェスターだ」
部屋の空気が変わる。友人の表情が固まった。
「……なんだって?」
「グランチェスター公爵家の長男」
沈黙。そして友人は再び写真を見た。
「本当なのか?」
「間違いない」
アレクサンダーは答える。
「我々の同級生だ」
その日から、ごく限られた範囲で噂が動き始める。
SMTが選んだロミオ。
ブロードウェイから来た俳優。
そして誰も知らなかった出自。
グランチェスター公爵家の名前。
その名が、少しずつ英国演劇界の水面下で囁かれ始めていた。
一方その頃。
その中心人物であるテリィ本人は、演出家に何度もロミオの解釈をやり直させられながら、そんな噂など知る由もなかった。