ロミオ役の発表から三日が過ぎていた。だが、テリィにはその三日が一週間にも一か月にも感じられた。

主演が決まった瞬間は確かにうれしかった。けれど、その喜びは長く続かなかった。

翌朝から待っていたのは祝福ではなく、現実だった。

ロミオは作品の中心に立つ。それはつまり、誰よりも多くを求められるということだった。


「違う」

演出家の声が飛ぶ。テリィは動きを止めた。

バルコニーシーンの稽古中だった。

ジュリエット役の女優へ向かっていた視線が途中で遮られる。

「今のロミオは何を見ていた?」

テリィは答えられない。演出家は台本を閉じた。

「君は台詞を言おうとしていた」

静かな声だった。

「だがロミオは台詞を言おうとはしない」

稽古場は静まり返る。

「彼はジュリエットを見ている」

演出家は中央へ歩いてくる。

「恋に落ちた男は次の台詞など考えない」

その言葉は鋭かった。

「彼女しか見えないんだ」


やり直し。再び最初から。もう何度目かわからない。

テリィは深く息を吸った。ロミオを理解したつもりだった。

主演に選ばれたことで、どこか安心していたのかもしれない。

だが現実は違った。ロミオはまだ遠い。

掴んだと思った瞬間に指の隙間から零れ落ちていくそんな感覚だった。


稽古が終わった頃には日が傾いていた。

俳優たちが帰り支度を始める。

エドワードも代役として稽古に参加している。

主演を逃した悔しさを見せることなく、誰より真剣にロミオと向き合っていた。その姿を見るたびにテリィは気を引き締められる。

もし自分が少しでも立ち止まれば、すぐ後ろにはエドワードがいる。それが悪い意味ではなく、俳優としての誇りだった。


「随分やられてるな」

声がした。振り返るとエドワードだった。

稽古場にはもう二人しか残っていない。

「そう見えるか?」

「見える」

即答だった。エドワードは苦笑する。

「主演になると皆そうなる」

そして舞台の中央を見た。

「選ばれるまでは役を追いかける。選ばれた瞬間から、役に追いかけられる」

その言葉にテリィは黙った。

確かにそうだった。ロミオを手に入れたはずなのに、今はロミオの方が自分を追い詰めてくる。

もっと理解しろ。

もっと深く潜れ。

そう迫ってくる。


「なあ」

エドワードが不意に言った。

「君はどうしてそんなに必死なんだ?」

テリィは顔を上げる。エドワードは笑っていない。純粋な疑問だった。

「主演になったんだ。普通なら少しくらい安心する」

テリィはしばらく考えた。だが答えは案外簡単だった。

「まだ足りないからだ」

エドワードが眉を上げる。

「何が?」

「全部」

思わずそう答えていた。

演技も、技術も、経験も、理解も。何もかも足りない。

ニューヨークで主役を務め、評価もされてきた。だが、ここへ来て思い知らされた。

上には上がいる。芝居には終わりがない。

それが怖くもあり、同時にうれしくもあった。


エドワードはしばらく黙っていたが、やがて吹き出した。

「なるほど」

肩を揺らしながら笑う。

「演出家が気に入るわけだ」

「どういう意味だ」

「さあ」

エドワードは肩を竦める。

「普通の俳優は役を手に入れたら満足する」

そして真っ直ぐテリィを見る。

「君は違う」

その声には不思議と悔しさがなかった。

「君は役を手に入れても、その先を見ている」


その夜、宿へ戻ったテリィは珍しく机に向かった。

書きかけの便箋が置かれている。ニューヨークへ送るつもりの手紙だった。

ロミオ役に決まったこと。ストラトフォードでの暮らし。稽古の日々。伝えたいことはいくらでもある。

だがペンを持ったまま手が止まる。

誰に書くのか。

団長か。

エレノアか。

それとも――。

ふと浮かんだ金色の髪に、テリィは苦笑した。

結局、便箋を閉じる。今はまだ書けない。

本当に書きたいことは、もっと先にある気がした。


窓の外では夜のストラトフォードが静かに眠っていた。

遠くで教会の鐘が鳴る。その音を聞きながら、テリィはゆっくり目を閉じる。

挑戦は終わっていない。むしろ始まったばかりだ。

ロミオという役を、自分のものにするために。

そして、その先にある何かを掴むために。

テリィは再び台本を開いた。

ページをめくる音だけが、静かな部屋に響いていた。