稽古場は静まり返っていた。

誰も動かず、誰も口を開かない。

窓から差し込む朝の光が床を照らし、その光の中に立つ演出家だけが、ゆっくりと二人を見つめていた。

テリィにも、自分の鼓動だけははっきりと聞こえていた。

不思議なことに、緊張よりも静けさの方が勝っていた。

ここまで来るまでにできることはすべてやった。

結果がどうであれ、それはもう自分の手を離れている。

だからこそ、今は待つしかなかった。

演出家は小さく息を吐いた。

その表情には安堵も迷いも混じっている。

ここ数日、どれほど悩み続けたのかが伝わってきた。

「ロミオ役は――」

再び沈黙が落ちる。誰もがその続きを待っていた。

そして、演出家は静かに名前を呼んだ。

「テリュース・グレアム」

その瞬間、時間が止まったような気がした。

稽古場の誰もがテリィを見る。

ジュリエット役の女優が小さく息を呑む。

演出補佐たちが顔を見合わせる。

誰もが予想していたようでいて、最後まで確信は持てなかった結果だった。

テリィ自身もしばらく動けなかった。ようやく意味が胸に落ちてくる。

ロミオを自分が演じるのだ。シェイクスピアの故郷で。この劇場で、この舞台で

最初に聞こえたのは拍手だった。誰が始めたのかは分からない。だが気づけば稽古場中に広がっていた。

ジュリエット役の女優が微笑みながら拍手を送っている。マキューシオ役の俳優も頷いていた。

その音の中で、テリィはようやく現実へ戻る。

「ありがとうございます」

それだけを言うのが精一杯だった。演出家は小さく頷く。

「君が勝ち取った役だ」

静かな声だった。

「胸を張りなさい」


その言葉を聞いた時だった。

テリィは隣に立つエドワードへ視線を向けた。彼は真っ直ぐ前を見ていた。

悔しくないはずがない。ロンドンで積み上げてきた実績がある。最初から本命と呼ばれていた。誰もが彼の主演を予想していた。その役を失ったのだ。

それでもエドワードはゆっくりとテリィへ向き直った。そして先に手を差し出した。

「おめでとう」

その笑顔には悔しさもあった。だが同時に清々しさもあった。

テリィはその手を握る。力強い握手だった。

「ありがとう」

短い言葉だがそれで十分だった。

エドワードは少し笑う。

「正直に言うと、最後まで納得できる気はしなかった」

テリィは何も言わない。エドワードは続ける。

「だが最後の墓所の場面を見て思った」

窓から差し込む光が二人の横顔を照らす。

「ロミオがそこにいたよ」

その言葉は何より重かった。

演出家からの評価よりも、拍手よりも。

同じ役を争った俳優からのその一言が胸に響いた。


稽古が終わったあとも、劇場の空気はどこか浮き立っていた。

主演が決まって、作品がようやく動き始める。

スタッフたちも忙しく動き回っている。

そんな中でテリィだけは妙に静かだった。

荷物をまとめ台本を鞄へ入れるいつもと同じ作業。

だが胸の奥には確かな熱が残っていた。

ふと気づく、誰かに伝えたいと思った。

ニューヨークの仲間たち。ケビンやマイケル。団長。

この知らせを聞いたらどんな顔をするだろう。

思わず口元が緩む。

だが次の瞬間、別の顔が浮かんだ。

金色の髪。笑うと弾むそばかす。

何年経っても変わらない笑顔。

キャンディ……。

テリィは小さく苦笑する。

こんな時まで、いや、こんな時だからこそかもしれない。

彼女に真っ先に伝えたいと。

もし今ここにいたら、きっと自分以上に喜んでくれるだろう。

そんな気がした。


夕方、俳優たちが帰ったあと、テリィは一人で舞台へ戻った。

客席は暗く誰もいない静かな劇場。

数日前まで、この舞台へ立つたびに自分は挑戦者で選ばれる側だった。

だが今日からは違う。

ロミオを演じる責任を背負う側になる。

主演というのは特権ではなく責任と作品の中心に立つ覚悟だ。

テリィはゆっくりと客席を見渡した。

やがて満員になる席、拍手を送る観客たち。

期待と失望。そのすべてを受け止める場所。

ふと演出家の言葉が蘇る。

――君は何を探しに来た?

あの時は答えられなかった。だが今なら少し分かる気がする。

探していたのはロミオだけではない。

俳優として、もう一段高い場所へ登るための何かだった。

そして今、その扉が開いたのだ。

テリィは静かに舞台の中央へ立った。

薄暗い客席の向こうを見つめる。

挑戦は終わった。だが本当の戦いは、ここから始まる。

シェイクスピアの故郷で演じるロミオ。

その重みを胸に刻みながら、テリィはゆっくりと目を閉じた。