改札の向こうへキャンディの姿が消えても、テリィはしばらくその場を動けなかった。人の流れだけが絶え間なく続いている。
遠くに聞こえる列車の発車ベル。行き交う人々の声。駅はいつもと変わらない。
やがて小さく息を吐く。そしてようやく踵を返した。
劇場街へ戻る道を歩く。けれど頭の中は別の場所にあった。
キャンディ……今日一日、何度その名前を呼んだか。
別れてから7年経つというのに、再会したのは昨日だというのに、まるで昨日まで隣にいたみたいだった。
テリィは苦笑した。
本当に変わらない。自分も、あいつも、いや、変わったのだろう。お互い大人になり、生きてきた年月がある。それでも、笑うときの顔だけは昔のままだった。
『イギリスでも頑張ってね。テリィならきっと大丈夫』
そう言ったときの笑顔が浮かぶ。自然と口元が緩んだ。
あいつは昔からそうだ。何の根拠もないくせに俺を信じてくれる。無茶な夢でも、不可能そうな目標でも、当たり前みたいに。
そして不思議なことに、あいつの言葉はいつも力になった。
テリィは歩きながら空を見上げる。なぜ劇場へ連れて行ったのだろう。今になって考える。
自由の女神でもよかったはずだ。ブルックリン橋でもよかったはずなのに。ニューヨークには他にも見せる場所がたくさんあったはずだ。
それなのに、無意識に劇場を案内しようと考えた。
稽古場、舞台、楽屋、仲間たち。自分が生きてきた場所。俳優として積み重ねてきた時間。
たぶん、それを見せたかったのだ。
別れてからの7年間を。今の自分を。ここまで来たことを。
あの日、ロックスタウンで見たキャンディの涙。
幻だったのか、本当にそこにいたのか、今でもわからない。
けれど、あの泣き顔は決して忘れない。
――もう一度、キャンディの笑顔を見たい。
そう誓ってニューヨークへ戻り、芝居だけを見つめて歩いてきた。
裏方からやり直した日々も、小さな役しか与えられなかった日々も、すべては俳優としてもう一度立ち上がるためだった。
そして気づけば、夢だったストラトフォードへの挑戦が目前にある。
不思議なものだ、とテリィは思う。
人生の大きな節目には、いつもキャンディがいる。
俳優になろうとしたときも。
舞台へ戻る決意をしたときも。
そして、俳優として新しい扉を開こうとしている今も。
彼女は、何度も自分の背中を押してくれた。
だからこそ、この七年間を、
俳優として積み重ねてきたすべてを、
キャンディに見てもらいたかったのかもしれない。
そこまで考えて、テリィはふと苦笑した。
振り返ってみれば、この二日間、自分のことばかり話していた気がする。
劇場を案内し、楽屋を見せ、偶然会った仲間を紹介した。
俳優として積み重ねてきた時間を語り、イギリスへの挑戦について話した。
だが肝心なことを何一つ聞いていない。
キャンディが今どこに住んでいるのか、毎日どんな生活を送っているのか。ひとつも聞かなかった。
ふと、改札でトランクを渡したときのキャンディの手を思い出す。
――そういえば左手の薬指に、指輪はなかった。
もちろん、それだけで何も決めつけることはできない。仕事柄、外していることだってある。
それでも、少なくとも結婚はしていないのではないか。
そんな小さな希望にも似た考えが胸をよぎり、テリィは思わず苦笑した。
自分でも呆れるほど、そんな些細なことを気にしている。
「マーチン先生、覚えてる?」
そう聞かれた時、一瞬誰だったかわからなかった。
だがすぐに思い出した。昔、シカゴでキャンディが働いていた診療所の医師だった。
なるほど、今もこの先生の下で働いているのか。そう納得してしまった。だからそれ以上聞かなかった。
どこの病院なのか、どこで暮らしているのか。そんなことを尋ねようともしなかった。
それどころか、独身なのか、婚約者はいるのか、付き合っている相手はいるのか……
本来なら真っ先に気になってもおかしくないことまで、一つも聞いていない。
テリィは額へ手を当てた。我ながらどうかしている。
7年ぶりに再会した相手だというのに、あまりにも舞い上がりすぎていたのだろうか。
再会できたことがうれしくて、こうしてまた話せることがうれしくて、それだけで頭がいっぱいになっていた。
だから別れたあとになって、ようやく気づく。
自分はキャンディのことをほとんど何も知らないのだと。
そして、今さらという気持ちよりも、何かを期待する気持ちが心の中を占め始めていることに。
その日の夕方、どうしても気になったテリィは、再会したホテルへ足を運んだ。
以前から顔見知りだったスタッフを捕まえ、それとなく尋ねてみる。
“全国医療・看護大会の出席者名簿”は残っていないか、と。
幸い医師のほうの席次表が保管されていた。そこにはマーチン医師の名前と肩書が記されている。
テリィはその文字を見つめた。アードレー財団記念病院。思わず目を細める。
アードレー財団……その名前に心当たりがないはずがなかった。
ということは――キャンディは今、アードレー家の病院で働いているのか。
そこまでわかっただけなのに、なぜか少し安心した自分がおかしかった。けれど同時に思う。結局わかったのはそれだけだ。
彼女がどんな毎日を送り、どんな人たちに囲まれ、どんなふうに笑っているのか。
本当に知りたかったことは、まだ何も知らないままだった。
ふと、雪の日の記憶がよぎる。最後に見たキャンディの顔。涙を流していた。
ロックスタウンで見たあの姿、幻の、あの日見たキャンディも泣いていた。
別れてから記憶に残っているキャンディは、いつも泣いている。
けれど、今日は笑っていた。
自分の知るあの笑顔で。
元気でいてくれればいい。
笑っていてくれればいい。
どこで生きていても。誰といても。
ずっと、そう思ってきた。
春の風が吹く。
テリィは小さく笑った。そして再び歩き出す。
頭の中には、改札の向こうで最後に見せたキャンディの笑顔が、いつまでも残っていた。