夏の終わりのニューヨークは、まだ少しだけ熱を残していた。

午後の陽射しが石畳を照らし、街路樹の葉が風に揺れる。

イヴ・セリーナは、帽子のつばを軽く押さえながら五番街を歩いていた。

夜には舞台がある。だから本当なら喉を休め、余計な外出は控えるべきなのだろう。けれど、稽古と公演の往復だけでは息が詰まりそうになる時もある。

そんな気分転換の途中だった。

交差点で足を止めたその時、視界の先に見覚えのある長身が入る。

「あれは……」

反射的に目を細めた。

帽子を深く被っていてもわかる。

テリュース・グレアム。

一瞬、声を掛けようと思った。

同じ舞台へ立つ相手役として。あるいは、ただの共演者として。

けれど、その隣にいた女性を見た瞬間、イヴは言葉を飲み込んだ。

蜂蜜色の髪が陽射しに透けている。淡いワンピース姿の、柔らかな雰囲気の女性は以前にも見たテリィの妻だ。

そして、その前には小さなベビーカー。

テリィは片手で押しながら、隣の妻へ何かを話していた。

彼女が笑う。するとテリィの口元も、自然に緩む。

舞台上では決して見せない、無防備な笑顔。

イヴは、なぜか足を止めたまま動けなくなる。

ショパンの舞台で再び恋人役を演じるようになってから、テリィと向き合う時間は多くなる。

近くで見れば見るほど、彼がどれほど魅力的な俳優か思い知らされる。

だからこそ、一時は惹かれた。けれど、その想いはもう諦めている。

彼が既婚者だから、というだけではない。

たぶん最初から、自分の入り込める場所ではなかったのだ。

ただ、実際に“幸せな夫”として笑う彼を見ると、胸の奥に説明しづらい感情が広がった。

嫌ではない。なのに、少しだけ苦しい。

イヴは小さく息を吐いた、その時だった。

キャンディがベビーカーを覗き込み、何かを言う。

テリィが少し屈んで答える。

その横顔を見た瞬間、イヴはまた妙な敗北感を覚えた。

以前もそうだった。

舞台を離れた場所で見るテリィは、自分の知っている“俳優テリュース”とはまるで違う。楽屋で見せる顔とも違う。

もっと柔らかく、穏やかで、気を許していて。

まるで彼女だけが知っている男みたいだった。

イヴは結局、最後まで声を掛けなかった。同僚として「こんにちは」と挨拶をするだけでいいのに。

二人の背中が人混みへ溶けていく。

ベビーカーの小さな影まで見えなくなってから、ようやく歩き出した。


その夜。劇場の楽屋では、開演前の慌ただしい空気が流れていた。

鏡の前へ座ったイヴは、ぼんやりと昼間のことを思い出していた。

テリィの妻は、アードレー家の養女。だからもっと、上品で静かな令嬢を想像してしまう。白いレースが似合うような、清楚なお嬢様を。

けれど彼女は、以前同様に自然で、あたたかくて、生活の匂いがする女性なのだ。

イヴはふと、自分の衣装を見る。今夜の役は華やかな恋人役。

胸元の開いたドレス。何段にも重なるフリル。揺れるスカート。

立ち上がって、くるりと回ってみる。裾がふわりと広がった。

鏡の中には、美しく飾り立てられた舞台女優がいる

けれど。

「……テリュースが好きなタイプではないというわけね、私って」

ぽつりと呟いて、自分で苦笑した。

派手で、華やかで、人目を引く女。

少なくとも、今日彼の隣で笑っていた女性とは正反対だ。

イヴは知らない。

テリィが誰かを好きになる時、見た目で選んでいないことを。

惹かれた理由が、もっとずっと深い場所にあることを。

だからイヴは、鏡の中の自分を見つめながら、どこか納得したように笑った。

「勝てるわけないじゃない。彼の好みが違うんだもの」

その時、楽屋の扉が開く。

「イヴ、そろそろ五分前だ」

スタッフの声。

イヴは最後に口紅を引き直し、鏡の中の自分へ微笑みかけた。

舞台の上では、今夜も恋人になる。

けれどそれは、幕が下りるまでの夢だ。

イヴは静かに立ち上がる。

その足取りは、不思議と以前より軽かった。