ニューヨーク・セントラル駅は、昼前だというのに人で溢れていた。

幾本もの線路が地下へ吸い込まれ、その奥からは蒸気機関車の低い唸りと金属音が絶え間なく響いてくる。

人々は急ぎ足だった。大きなトランクを抱えた旅行客、新聞を片手に歩く男、子どもの手を引く母親。

その喧騒の中に、テリュース・グレアムは紛れていた。

深く被った目出し帽、サングラス。肩には小さなボストンバッグ。簡単な変装だった。

けれど、ここ数年で彼は学んでいた。
“隠れようとしすぎないこと”のほうが、かえって気づかれにくいのだと。

もっとも――。その長身と、どこか舞台の上を思わせる立ち姿だけは、どうしても隠しようがなかった。

ただ、彼の周囲には自然と“近寄りがたい空気”が生まれていた。

誰もが一瞬だけ視線を向ける。だが、それだけだ。

まさか、この場所に、ブロードウェイの人気俳優がいるとは思わない。

テリィは静かに息を吐いた。その手には、一枚の切符。シカゴ行き――20世紀特急。

昨夜、何度も読み返した手紙の言葉が、また胸の奥で蘇る。

『あなたに会いたいって、心からそう思ってる自分に気づいたの……』

その一文だけで、彼はここまで来てしまった。

長いあいだ押し込めていた想いが、いまさら止まるはずもなかった。

ホームに列車が滑り込んでくる。

鈍く光る車体、磨き上げられた窓。重厚な蒸気機関車。20世紀特急――。

ニューヨークとシカゴを結ぶ、アメリカを代表する特急列車だった。

テリィは目を上げる。白い蒸気がゆっくりと立ちのぼっていく。胸の奥が、静かに脈打った。

(……本当に行くんだな)

いまさらのように、実感する。


乗車開始の案内が流れた。

テリィはボストンバッグを肩に掛け直し、列車へ乗り込む。

一等客室は重厚な木目の壁に柔らかな絨毯が敷かれ、窓際には小さなソファ椅子が置いてある。

地方公演で寝台列車を使うことは珍しくない。
だが今日は、どの移動とも違っていた。

ひとりの女性に会うためだけの旅だった。


正午。定刻通り、20世紀特急はニューヨークを発車した。

地下ホームをゆっくりと滑り出し、やがて地上へ出る。

ビル群が流れていく。マンハッタンの街並み。

それらが、少しずつ遠ざかっていった。

十分ほど経つころには、進行方向左手にハドソン川が現れる。

陽光を受けた水面が、眩しく煌めいていた。

テリィは窓際の椅子へ腰を下ろす。

ゆっくりとブラインドを半分だけ下ろした。

列車はハドソン川に沿うように北上していく。

対岸には深い森。

ほんの二十分前まで、あれほど人で溢れていたというのに、もう人の気配はほとんどない。

静かだった。規則正しい車輪の音だけが、客室に響いている。

テリィはその音を聞きながら、ぼんやりと景色を眺めていた。

地方公演へ向かうとき、彼はほとんど車窓を見ない。移動時間は、役へ入る時間だった。

台本を読み、台詞を反復し、舞台へ向かって神経を研ぎ澄ませていく時間。

けれど今日は違う。

“テリュース・グレアム”ではなく、ただ、キャンディに会いたい男として、この列車に乗っていた。

それが不思議だった。

どこか、落ち着かない。

なのに――胸の奥だけが静かに満たされていく。


ハドソン川はどこまでも続いていた。

川面が陽を弾き、風に揺れ、遠くにはキャッツキル山地の稜線が霞んで見える。

保養地として知られる美しい地域。だがテリィの意識は、次第に景色から遠ざかっていった。

ふと、ジャケットの内ポケットへ手を入れる。

そこには、キャンディからの手紙が入っていた。

何度も読み返したせいで、もう紙の感触すら覚えてしまっている。

それでも触れずにはいられなかった。

列車は西へ向かって走り続ける。

まるで、止められなくなった自分の気持ちみたいに。


列車がオールバニー・レンセリアへ到着したころには、午後の陽射しは少しずつ傾き始めていた。

長距離列車特有の、ゆるやかな疲労感が車内を包んでいる。

ホームには多くの乗客が降り立ち、思い思いに身体を伸ばしていた。

ここでボストン編成の車両を連結する。

20世紀特急はしばらく停車することになっていた。

だがテリィは客室から出なかった。

ブラインドを閉め、静かな個室の中で本を開いていたものの、ほとんど文字は頭へ入ってこない。

やがて外から、金属がぶつかり合う鈍い音が響いた。

連結作業は、重々しい衝撃が客車全体へ伝わる。

その振動が妙に現実感を伴って胸へ響いた。


列車はまた走り出す。

エリー運河に沿いながら、シカゴを目指して。

窓の外では、モホーク川が夕陽を受けて光っていた。

長く続く谷、古い街並み。遠くに霞む山々。

流れていく景色を見つめながら、テリィはゆっくりと本を閉じた。

そして、そのまま窓へ視線を向ける。思い出していた。雪のポニーの家を。

あのときの暖炉の火の色まで、いまでも鮮明に思い出せる。

子どもたちの笑い声に薪の爆ぜる音。

そして、“キャンディの話をするとき”の先生方の穏やかな目。

テリィはそっと息を吐いた。

あのころ、自分はまだ若かった。

別れというものを、どこか単純に考えていたのかもしれない。

離れても、時間が過ぎても、想いが変わらなければ、また会える、そんなふうに信じていた。

だが現実は違った。

時間は積み重なり、季節が過ぎ、人は変わり、人生はそれぞれ別の場所へ流れていった。

彼女のいない年月は、思っていたよりずっと長かった。

そして――苦しかった。