休演日の午後、マンハッタンの空は鈍い灰色をしていた。昨夜まで劇場を包んでいた熱狂が、嘘みたいに遠い。

『ハムレット』は初日から大成功だった。

新聞各紙はこぞってテリュース・グレアムの復活を報じ、“本物のハムレット”“時代を塗り替えた主演俳優”とまで書き立てている。

けれど、その賑わいから切り離されたように、車の中には静かな時間が流れていた。

テリィはハンドルを握ったまま、ほとんど口を開かない。後部座席のスザナは窓の外を見ながら、後ろ姿をそっと盗み見る。昨夜の舞台の熱が、まだ完全には抜け切っていないようだった。

休演日の今日は午後から、スザナのリハビリ施設へ行く日だった。

事故以来続いている通院、義足の調整や歩行訓練。

本来なら家の運転手で間に合う。けれどテリィは、予定が開けば必ず送り迎えをしてくれていた。

だが、それを義務のように続けていることを、スザナは知っている。

車はゆっくりと信号で止まる。

フロントガラス越しに、劇場街のポスターが見えた。

“HAMLET — TERENCE GRAHAM”

大きく刷られたその名前を見つめながら、スザナはふと半月前の舞台を思い出す。

狂気の奥に滲む孤独、愛する者を失う恐怖。どうにもならない運命へ抗いながら、それでも生きようともがく姿。観客は息を呑み、舞台へ引きずり込まれていた。

そしてスザナだけは、あのハムレットの中に、役ではない“テリィ自身”を探していた。

そこで見たのは、舞台へ立つ彼は、ときどき隠していたものが滲んでいた。

苦しみも、喪失も、忘れられない想いも。芝居が深くなればなるほど、それは隠せなくなっていく。

「……ハムレット、すごかったわ」

静かな車内で、スザナがぽつりと言った。テリィは少しだけ目を細める。

「そうか、ありがとう」

「みんな息をするのも忘れてたわ」

小さく笑うように言うと、テリィは前を向いたまま苦く笑った。

「ああいう役は、疲れる」

短い言葉。けれど、その声の奥にある重さを、スザナは知っている。

スザナは、誰より知っていた。照明落下事故のあと、テリィが壊れていった理由を。

世間は言う。彼女の脚を奪った責任に押し潰されたのだと。けれど、本当は違う。

それに少なくとも、それだけではなかった。

テリィを壊したのは――キャンディと別れたことだ。

自分の人生よりも、スザナを支えることを選んだこと。

“テリィなしでは生きていけない”スザナのために、彼は愛する人を手放した。

そして、責任と罪悪感で、そばにいることを選んだ。

だから、あの頃のテリィは、少しずつ自分を失っていった。

酒に溺れ、舞台から遠ざかり、何日も部屋へ閉じこもることもあった。窓の外ばかり見ていた横顔。何を聞いても返事をしない夜。

あれは事故の傷ではない。愛する人を、自分の手で諦めた傷だ。

もちろん、別の道もあったのだと思う。スザナを支えながら、キャンディとの関係を続けることも、きっと不可能ではなかった。

けれど――それは、スザナ自身が許せなかった。

テリィを愛しているからこそ。

彼が別の女性を想いながら、自分の隣にいることを、“仕方のないこと”として受け入れることなど、できなかった。

だから彼は、自分で切り離した、愛していたものを。そして、その代償のように、少しずつ壊れていった。

スザナは、そのことをずっと知っている。

けれど芝居の話だけは違った。ほんの少しだけ、目の奥に光が戻った。

スザナにはわかってしまったのだ。

この人から舞台を奪ったら、本当に壊れてしまう、と。

スザナが恋をしたのは、“俳優テリュース”だった。

命を削るように舞台へ立つ人。

苦しいほど自由で、誰より眩しい人。

だから、その核だけは奪えなかった。

もし彼がもっと弱い人間なら。

「私にはあなたしかいない」と泣き続けていれば。

「そばにいて」と縋り続けていれば。

テリィは離れなかったかもしれない。

責任感も、優しさも、罪悪感も、この人は捨てられないから。

でも、それをしてしまえば、彼から“彼自身”を奪うことになる気がした。


やがて車はリハビリ施設へ到着する。

テリィはエンジンを切ると、自然な動作で後部座席へ回った。

トランクから車椅子を降ろし、ドアを開け、庇うように手を添える。その動作はもう身体に染みついていた。

優しい、とスザナは思う。そして、その優しさが苦しいとも思う。

施設の入口でスザナはふとテリィを見上げた。

彼はどこか遠い顔をしていた。

身体はここにあるのに、心の一部だけがまだ舞台へ残っているような顔。

きっと彼は、芝居をしているから生きていられる。

けれど芝居をするたび、忘れられない。

愛した人も、失ったものも、自分自身の傷も。

ただ、舞台は彼を救っている。

でも同時に、傷口を閉じさせてくれない。

「迎えは、何時頃?」

施設の前でテリィが静かに聞く。

「四時には終わると思うわ」

「わかった。じゃ、その頃に」

「……ちゃんと休んでね。休演日なんだから」

「努力はする」

その目は少し疲れていた。

それは、観客を熱狂させた俳優の顔ではない。

ただ静かに、何かを抱え続けている男の顔だった。

施設の扉が閉まる直前、スザナは一度だけ振り返る。テリィはまだそこに立ち、空を仰いでいた。

冬の曇り空の下で、どこか行き場をなくした人みたいに。

スザナは、ときどき思う。

ここまでわかっているのに、自分はどうしてこの人を解放できないのだろう、と。

彼の心がどこにあるのか。

誰を忘れられないのか。

本当は、ずっと前から知っているのに。

それでも、「行って」とは言えなかった。

言ってしまえば、この人は本当に行ってしまう気がしたから。

自由にしているふりをしながら、本当は彼が自分を見捨てられないことを、どこかで信じている。

自分はきっと、ズルいのだ。

――それでも。

舞台へ戻った彼を見るたび、スザナは思ってしまう。

せめて芝居だけは、この人から奪わなくてよかった、と。

それだけが、自分に残された最後の良心のように思えたから。