ニューヨークの家には、引っ越し前特有の落ち着かない空気が漂っていた。
リビングには半分閉じられたトランク。積み上げられた本。梱包途中の食器箱。窓の外では、初夏の光が街路樹を揺らしている。
イギリスへの移住が、いよいよ現実になろうとしていた。ストラスフォード劇団での最後の舞台を終えたテリィは、その日ひとり書斎に籠もっていた。
本棚の整理に、古い台本の選別。ニューヨークで積み重ねた時間を、一つずつ箱へ詰めていく作業だった。
引き出しを開けた時だった。奥に押し込まれていた古い便箋が、ぱさりと床に落ちる。
テリィの手が止まった。それを見た瞬間、胸の奥がざわつく。ゆっくり拾い上げる。折り目のついた紙、少し黄ばんだ便箋。そして、開いた瞬間。
『キャンディへ』
その文字が目へ飛び込んできた。テリィは息を止めた。
忘れていたわけではない。ただ、ずっと奥へ沈めていたのだ。
書斎には静かな午後の光が落ちている。遠くで子どもたちの声がした。けれどテリィは、その場から動けなかった。
便箋を開く。そこには、あの頃の自分がいた。
雪の夜。主演復帰を果たしたハムレットの熱狂。喝采の中にいて、充実した気持ちとどこか満たされない想い。送ることもできず、引き出しへ閉じ込めた言葉たち。
『本当は、今でもきみを愛してる』
その一文を見た瞬間、胸の奥が静かに軋んだ。
今ならわかる。あの頃の自分は、不均衡の最中にいた。舞台は自分の居場所だと思った、けど自分の心が削られていたことに気づかなかった。
テリィはゆっくり椅子へ腰を下ろした。窓の外では、ニューヨークの空が青く広がっている。
けれど、心は一瞬であの雪の夜へ戻っていた。もう二度と戻れないと思っていた頃。
あの絶望の深さが、紙の中にはまだ生々しく残っていた。
その時だった。勢いよく書斎の扉が開く。
「おとうさん……っ!」
べそをかいた声。次の瞬間、小さな身体がテリィへ飛びついてきた。
「うわーん」
泣き出すオスカーを、思わず片腕で受け止める。
まだ幼い次男は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、テリィの膝へしがみつく。
「おにいちゃんがぁ……っ」
しゃくり上げながら何か訴えている。
その直後、廊下の向こうから慌てた声が響いた。
「オスカー!?待ちなさい!」
キャンディのぱたぱたと駆けてくる足音。
テリィは、はっと現実へ引き戻される。
書斎の空気が変わる。
子どもの泣き声、廊下の足音、生活の音。
失ったと思っていたものが、今はちゃんとここにある。
キャンディが書斎へ顔を出した。
「ごめんなさい、テリィ。兄弟げんかしちゃって……」
言いながら、テリィの腕の中のオスカーを見て困ったように笑う。
その顔を見た瞬間だった。テリィの胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
腕の中の温もりは、泣きじゃくる息子の体温。
扉の向こうから聞こえるオリヴァーの不満そうな声。
そして、キャンディのいる風景。
――ああ。
自分は、長い時間をかけて、ようやくたどり着いたのだ。
テリィは膝の上の便箋へ視線を落とした。かつての自分が、痛いほどの字で綴った言葉。
もう失ったと思っていた未来。けれど今、その“未来だった人”は、ちゃんと目の前にいる。
テリィは静かに便箋を閉じる。
そして泣き続けるオスカーの頭を、大きな手でゆっくり撫でた。
「……で、今回はどっちが悪いんだ?」
低い声で聞くと、オスカーは涙声のまま必死に訴え始める。
「おにいちゃんが、おもちゃかえしてくれないのぉ……っ」
涙声で必死に訴えるオスカーの頭を撫でながら、テリィは苦笑する。
「それで喧嘩になったのか?」
「うん……っ」
その様子を見ていたキャンディも、困ったように笑いながら書斎へ入ってきた。
「オリヴァーったら、さっきから“ぼくのだもん”って聞かなくて――」
そこまで言いかけた瞬間だった。床へ積まれていた本の束へ足先が引っかかり、キャンディの身体がぐらりと傾く。
次の瞬間、テリィの腕がしっかりとその身体を受け止めた。
「大丈夫か?」
キャンディは彼の腕にすっぽりと包まれながら、ぱちぱちと瞬きをする。
「あ、えへへ……私ったらドジね」
照れたように笑うその顔を見た瞬間、テリィの表情がふっと緩む。
どうしようもなく愛しい妻の顔。そして、そのまま自然にキャンディの唇へキスを落とした。
2回、3回……小鳥のような可愛いキス。突然のことにキャンディの頬が赤くなる。
「て、テリィ……っ」
その横で、今まで泣いていたオスカーが、ぽかんと目を丸くしていた。
きょとん、と両親を見上げる。そして次の瞬間。
「おにいちゃーん!!」
勢いよく書斎を飛び出した。
「おとうさんとおかあさんがキスしてるぅー!!」
廊下の向こうから、すぐにオリヴァーの「えぇ!?」という大声が返ってくる。
一瞬、書斎が静まり返った。そして、テリィとキャンディ、同時に吹き出す。
「さっきまで兄弟げんかしてたのに」
「あっさり仲直りしたな」
「それにしても、テリィったら……」
「ん?いいだろ?ふたりが仲直りしたんだから」
「それもそうね。……でもテリィ、そろそろ離してもらえる?」
その腕はまだ、キャンディの身体を包んだままだ
「いやだね。もう少しこのままで」
「まぁ、子どもみたいなこと言ってるわ」
呆れた顔のキャンディを今度は強く抱きしめる。
もう二度と離さないと心を込めて。
窓から差し込む午後の光が、静かに二人を包み込む。
あの日、守るために手放した愛は、消えたわけではなかった。
遠回りをして、傷ついて、それでも途切れずにここまで繋がっていた。
あの夜、最後だと思ったぬくもりは――
長い時間をかけて、もう一度この手に戻ってくるための、約束のぬくもりだった。