『最後の良心』読んでくださいまして、ありがとうございます。


私の描くテリィは苦しい感情のお話が多く、現在展開している『Stories A to Z』でも、苦しみの中にあるテリィを描いているお話が多いです。

『Stories A to Z』が折り返しにある今、もう一度テリィの感情を見返してみようと思い、これを書いています。

私が見返さないとならないと思ったことは、
“テリィは何に苦しんでいたのか”ということです。

これをもう一度考えたいと思いました。


私のお話では、テリィにとって“芝居は精神的な支え”として描いています。

これはファイナルストーリーにおいて、彼は主役へ復帰し、ロングランに次ぐロングラン、ロンドン公演も果たしたなどというエピソードがあることで、主役への復帰やその後の活躍のためには、相当な時間を稽古へ費やしているはずだと考えられました。

そうなりますと、スザナは、彼を自由にしていたと言えるのではないか、という考えが浮かぶのです。

つまり、テリィは大切な芝居を思う存分できる環境にあったということです。


「じゃあ、なぜテリィはそんなに苦しいの?」

という疑問が生まれるのです。

私自身、そこを長い間ずっと考えていました。

キャンディを失ったこと、この一言に尽きるのですが、別れたから、だけではないと思っています。

そしてそれは、心の拠り所の芝居で大成しているのになぜ苦しいのかという疑問にも繋がります。

ずっとずっと考えて、その答えが見えてきた気がしました。

なので、そのようにお話を書いてきました。


その答えとは、“キャンディを愛したまま生き続けなければならなかったこと”が、テリィをいつまでも苦しめたのではないかと思いました。

しかも厄介なのは、彼には芝居の才能があり、舞台へ立てば喝采を浴び、成功してしまう。

つまり、社会的には“成功した俳優”と見られていく。

だから周囲は、ロミオでの失態は、「もう過去のこと」、主役として立つことは「立ち直った」と思われる。

でも実際には、テリィの感情は終わっていない。

キャンディを愛したままで、失った時間を抱えたまま。

なのに舞台では、愛や喪失や孤独を演じ続けなければならない。

ここがテリィの苦しさではないかと思いました。

つまり外から見ると、“成功している”。

でも本人の中では、何も終わっていない。

この「外側と内側のズレ」が、テリィが苦しく感じるところなのかもしれないと考えています。

彼にとって芝居は、「感情を忘れる場所」ではなく、「感情を吐き出せる場所」。

舞台では、役を通してなら、愛も、怒りも、孤独も、絶望も、全部出せる。

つまり芝居をしている時だけ、“本来の自分”へ戻ってしまう。

だから苦しいときほど、劇場や稽古場に行くのです。

たとえば、キャンディを思い出した夜、どうしようもなく孤独な夜、感情を抱えきれない休日ほど、彼は劇場や稽古場へ向かう。

芝居としてなら、その感情を役に変えられる。

ハムレットとして叫び、苦悩する。

すると、一瞬だけ呼吸が楽になる。

でも、さらに厄介なのは、芝居が彼を救う一方で、感情を消してはくれないということ。

むしろ逆に、役を演じるたび、感情は鮮明になる。

だからテリィは、

「芝居に救われながら、芝居によって傷が開かれたまま」という状態なんです。

ここが、テリィの苦しさの“核”だと私は思っています。

つまり彼は、芝居があるから壊れなくてすんでいる、でも芝居があるから忘れられないという“矛盾”の中で生きている、のです。

本人は、舞台の上で、ずっと自分の感情を削り続けている。

なぜなら、舞台の上でだけ、本来の自分へ戻ってしまうから。

そしてテリィは、芝居だけが自分の居場所だと思っていますが、実はその芝居によって苦しみが消えないと、気付いていないのです。

(ですが、スザナは気付いています、それが直前のお話の『最後の良心』ということです)


以上、これが、テリィが何に苦しんでいるのかという、私の原点でした。

ここまでの文章を読み返すと、同じことを繰り返し述べていたり、また、くどいところや、文法も曖昧で、何が言いたいのか伝わりにくいかもしれないですが、今の私の頭の中だと理解してくださるとありがたいです。


長い文章、ご一読ありがとうございました。


ちなみに、このお話が「本当にきちんと描けるのか」というお話ではないです。

そちらは、Stories A to Zの【P】から派生していきます。

投稿の暁には、読んでいただけたらうれしいです。