【P】Parting/レスポンスストーリー
ニューヨークの駅は、22時になっても光に満ちていた。
高い天井の下を、無数の靴音が行き交う。蒸気機関車の白い煙が薄く漂い、構内放送の声が反響し、新聞売りの少年の呼び声が遠くで混ざっていた。
けれどキャンディには、そのどれもが、まるで遠い世界の音のようにしか聞こえなかった。
自分がどうやってここまで来たのか、よく覚えていない。
病院を出て、雪の降る街を歩いて、人波に押されるように駅へ辿り着き、切符を買い、気づけばホームに立っていた。
ホームには、夜行列車を待つ人々が溢れていた。ニューヨークからシカゴへ向かう長距離列車。大都市を結ぶその列車は乗客が絶えない。
軍服姿の青年、大きなトランクを抱えた婦人、眠そうな子どもを連れた家族。誰もがそれぞれの場所へ向かっている。
なのに、自分だけが、どこにも向かえていない気がした。
「――ご乗車ください!」
車掌の声に押されるように、キャンディは列車へ乗り込んだ。
狭い通路を歩き、窓際の自分の席を見つける。荷物を置き、ようやく腰を下ろした瞬間、全身から力が抜けた。
発車のベルが鳴る。
やがて、重たい振動とともに列車がゆっくりと動き出した。
窓の外で、ニューヨークの灯りが少しずつ遠ざかっていく。
テリィが生きている街。
その光が滲み始めたころ、不意に、あの瞬間が脳裏によみがえった。
病院の屋上、雪の中、力なく崩れ落ちたスザナ。
青ざめた顔、震える身体。壊れそうな呼吸。
その彼女を、テリィが抱き上げた瞬間。
――ああ……と、キャンディは悟ってしまったのだ。
スザナは、もうテリィなしでは生きていけない。
そしてきっと、テリィもそれに気が付いた。
あのときのテリィの顔を、キャンディは忘れられなかった。
責任感という言葉だけでは片付けられない。
もっと深いところで。
彼は、自分のせいで人生を変えてしまった少女を、見捨てることなどできないのだと。
それがテリィという人なのだと。
誰より不器用で、誰より優しくて。
だからこそ、自分を後回しにしてしまう彼。
キャンディは震える指先をぎゅっと握り締めた。
(彼女は、テリィのために足を失った……)
胸の奥で、何かが軋む。
(私は、テリィのためになにができる?……
私はあなたを失うしかない……それで、おあいこ?)
そこまで考えて、キャンディは小さく首を振った。違う、テリィは物じゃない。
誰かと誰かで奪い合うものじゃない。
わかっている、そんなこと、最初から。
どんなに離れたくなくても。
どんなに彼を愛していても。
もう、あれしか方法がなかった。
スザナを中途半端に支えることは、きっと彼女をもう一度壊してしまう。
表面だけ優しくして、恋人は別にいる――そんな曖昧な支え方では、駄目なのだ。
キャンディにも、それがわかってしまった。
だから、身を引くしかなかった。
それなのに、心だけが、どうしても納得してくれなかった。
窓へ額を寄せる。冷たいガラスが熱を奪っていく。
(テリィ……)
心の中で名前を呼ぶ。何度も、何度も。
(私、あなたにちゃんと言葉にして伝えてない……)
列車は暗い夜を走り続ける。規則的な車輪の音が、胸の奥へ沈んでいく。
あの日、自分を学院へ残すために、退学を選んだテリィ。
けれどキャンディには、テリィのいない学院に残る意味が見出せなかった。
だから自分もアメリカに戻り、看護学校へ進んだ。
夢を追う彼の隣に、胸を張って立てる自分になりたかった。
“ただの私”ではなく、彼に恥じない私になりたかった。
(看護婦になれたのは、あなたのおかげなの)
涙が頬を伝う。けれど声は出なかった。
周囲にはたくさんの乗客がいる。
誰もキャンディを見ていない。
彼女は、泣き声を押し殺した。
(あなたは……私の未来だった)
その瞬間、ふいに背中が震えた。
最後に抱きしめられた感触が、あまりにも生々しく残っていた。
背中から包み込まれた腕、触れた胸、苦しいほど近かった鼓動。耳元に落ちた息。
そして首筋に触れた、熱い涙。
テリィも泣いていた。
声を殺して。壊れそうなくらい強く抱きしめながら。
あれが、本当の最後、本当のお別れなのだ。
キャンディは目を閉じた。
離れたくなかった。
別れたくなんてなかった。
どんなにこの日を待っていたか。
どんなに彼に会いたかったか。
本当は、誰にも渡したくなかった。
ずっと、ずっと、好きなのに。
今も、胸が壊れそうなくらい愛している。
けれど――。
「……これしか、なかったんだよね……」
かすれた声が、誰にも届かないまま夜の列車へ溶けていく。
窓の外では、ニューヨークの灯りが、もう見えなくなっていた。
そしてキャンディは、そっと胸元を押さえた。
『あなたが好き』と、
結局、一度もちゃんと言葉にして伝えられなかった。
言わなくても伝わっていると、どこかで思っていたから。
けれど本当は、ちゃんとあなたに言いたかった。
その想いは、届かないまま、夜の列車の揺れへ静かに溶けていった。