ファンミーティングを終えて帰宅したころには、マンハッタンの夜はすっかり静かになっていた。玄関の扉が開く音がした瞬間、ぱたぱたと軽い足音が廊下を駆けてきた。
「おかえりなさい!」
駆けてきたキャンディを、テリィは自然に両腕を広げて受け止める。勢いのまま胸へ飛び込んできた身体を抱き留めながら、小さく笑った。
「ただいま」
外気を纏ったコート越しの冷たさに、キャンディが少し肩を竦める。
「寒かった?」
「まあな」
そう答えながら、テリィは彼女の金色の髪へそっと口づけを落とした。柔らかな髪が唇を掠める。それだけで、不思議と一日の疲れがほどけていく気がした。キャンディがくすぐったそうに笑う。
「オリヴァー、今日は早く寝ちゃったの」
「起きてると思ったのに」
「昼間、たくさん遊んだから」
テリィは小さく息を漏らして笑った。それから、抱いていた腕をゆっくり離す。
「ちょっと見てくる」
キャンディが頷いた。
廊下を静かに進み、子供部屋の扉をそっと開ける。小さなベッドの中で、オリヴァーは毛布に包まれて眠っていた。
まだ一歳になったばかりの小さな身体。寝息は穏やかで、時折小さく指先が動いた。
テリィはベッドの横へしゃがみ込む。起こさないように、そっと前髪へ触れた。その顔立ちは、時々驚くほど自分に似ている。けれど眠っている表情は、どこかキャンディに似て柔らかかった。
「……ただいま、オリヴァー」
小さく呟く。当然、返事はない。それでも、胸の奥が静かに満たされていく。
テリィはしばらくその寝顔を見つめてから、静かに立ち上がった。扉を閉め、リビングへ戻る。そこではキャンディがランプの灯りの下で、二人分の紅茶を用意していた。
「どうだったの? 今日」
テリィはネクタイを緩めながら言った。
「オススメの本をくれって言われた」
「本?」
キャンディが少し目を丸くする。
「まぁ、素敵。テリィ、読書家だものね。それで、どんな本を渡したの?」
「”Hamlet”だよ」
「実にあなたらしい本ね」
「でも実は、もう一冊持ち歩いてる」
「もう一冊?」
「ああ。でもそれは渡さなかった」
テリィはソファの背へ軽く凭れた。
「それは、『This Side of Paradise』という本」
キャンディが少し考えるように目を細める。
「フィッツジェラルド?」
「知ってるのか」
「名前くらいは。最近よく見かけるもの」
「『This Side of Paradise』は、22くらいのとき、買ったんだ」
「そんな前に?」
「ああ。今はもうなくなったけど、その頃劇団の近くにあった小さな本屋でね」
窓を打つ雨音、狭い書店。積み上げられた新刊。あのころの記憶が、妙に鮮明に思い浮かぶ。
「最初は、最近流行ってる若者小説かって程度だったんだ」
シェイクスピアでもなく、戯曲でもなく、哲学書でも詩集でもない。なぜか導かれるように手に取り、その場で目を通す。読み進めるうちに、妙に息が詰まった。キャンディは黙って聞いている。
「今読むと、青臭いんだけど……愛されたいくせに、変に格好つけて距離取るところとか。何者かになりたいくせに、自分を信じ切れないところとか」
テリィは苦笑した。22歳の自分には、痛いほど近かった。ようやく舞台で結果が出始めたころ。でもまだどこか半端で、なのに妙な自負だけは捨てられなかったころ。
誰にも見せないようにしていた部分を、その本だけは勝手に覗き込んでくる気がした。
「渡すのやめた理由がそれなの?」
キャンディがやわらかく聞く。テリィは少し黙り、それから肩をすくめる。
「……なんか、若い頃の自分を見せるみたいで嫌だった」
その言い方があまりに率直で、キャンディは思わず小さく笑った。
テリィが眉を寄せる。
「なんだよ」
「ううん。そんなふうに思うんだなって」
「思うよ、普通に」
「でも、もしその本を受け取った人がいたら、きっとうれしかったと思う」
「どうだかな」
「だって、その頃のテリィを少し知れるもの」
静かな声だった。テリィは何も言わない。キャンディは続ける。
「ハムレットは、“俳優テリュース・グレアム”の本でしょう?」
その言葉に、テリィは目を細めた。
「でもその本は、“テリィ”の本だったのね」
部屋が静かになる。遠くで車の音がした。
ニューヨークの夜はまだ眠っていない。
けれどこの部屋だけは、切り離されたみたいに穏やかだった。
しばらくして、テリィが低く笑う。
「……だから渡さなかったんだろうな」
キャンディは小さく微笑んだ。
「……でも、きみには読んでほしいと思った」
ぽつりと落ちたその言葉に、キャンディがゆっくり瞬きをする。
テリィは少しだけ視線を逸らしたまま、苦笑するように肩をすくめた。
「ハムレットは、役者としての俺が詰まってる」
余白の書き込み。台詞の解釈。舞台の動き。役を生きるために積み重ねた時間。“俳優テリュース・グレアム”の本だ。
「……若かった頃の俺みたいな本は、きみには知られてもいいんだ。ま、今さら隠すことでもないし」
キャンディは小さく笑った。
「じゃあ、今度貸して?」
「あぁ、もちろん」
キャンディは、ごく自然にテリィにそっと身体を寄せる。触れるか触れないかくらいの距離。
22歳のころに買ったその本を、どうして今まで持ち歩いていたのか——本当のところ、自分でもはっきり説明はできない。ただ、ページを開けば、あの頃の自分がいた。
何者にもなれず、足掻きながら、それでも芝居だけは手放せなかった若い自分。孤独で、尖っていて、誰にも触れられたくなかった頃。今なら、もっと器用に生きられると思う。
けれど、あの頃の自分がいたから、今ここにいることも知っていた。だから、捨てられなかった。
そしてたぶん——帰る場所ができた今だからこそ、ようやく安心して持ち歩けるようになったのだ。
それだけで十分だった。