【Y】Yet(それでも、幸せになっていい)
窓辺に置かれたラジオから、午後の音楽番組が静かに流れていた。冬の陽射しが、小さな居間へ差し込んでいる。
ニューヨークを離れて、もう四年が過ぎていた。
兄夫婦の家に身を寄せてからの生活は、決して派手ではないけれど穏やかだった。最初の頃は何をする気力もなかった自分が、今では実家の家業を継ぐ兄を手伝い、庭へ出て花の世話をし、時折町へ買い物へ行くようになっている。
人は、どれほど深い悲しみの中にいても、生きていくしかないのだと知った。
その日も、ミセスマーロウはいつものように午後の紅茶を淹れていた。
テーブルの上には、兄が町で買ってきた新聞が置かれている。
何気なく手を伸ばして、そして、指先が止まる。
《人気俳優テリュース・グレアム、アードレー家令嬢との結婚を公表》
その見出しを見た瞬間、マーロウ夫人はしばらく息を忘れたように動かなかった。
写真には、見覚えのある青年が写っていた。
けれど、そこにいる彼は、かつて自分が知っていた“テリュース”とは少し違って見えた。
穏やかな表情、肩の力が抜けていて、静かに笑っている。
その隣には、金色の髪の女性。顔は隠されているが、彼女を見つめるテリュースの視線の優しさは隠しきれていなかった。
ミセスマーロウは、そっと新聞へ指を滑らせた。
結婚したのは一年半も前らしい。ただ、公にしていなかっただけなのだと記事は伝えていた。
そう、と小さく息を吐く。
そして不意に、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
――ああ、この子は。
やっと、自分の人生を生きられるようになったのね。
その瞬間、はっきりと理解した。
テリュース・グレアムは、スザナの恋人ではなかったのだと。
もちろん、彼は誠実で優しかった。
最期までスザナを支え続けた。
けれどそれは、“愛し合う恋人”としてではなく、もっと別の――責任や罪悪感や、痛みの延長線上にあったものだったのだと、今になってようやくわかる。
ミセスマーロウは静かに目を閉じ思い出す。
娘を失うかもしれない恐怖に取り乱していた頃のことを。
“あなたのせいだ”と、彼を責めた日のことを。
スザナが不安定になるたび、彼へ縋っていた自分を。
“この子をひとりにしないで”と、彼へ迫っていたことを。
あの頃のテリュースは、まだ二十にも満たない青年だった。
娘と、ほとんど変わらない年頃。
本来なら、夢を追い、恋をし、自分の人生を生きていてよかったはずの若者だったのだ。
なのに自分は、娘を救いたい一心で、その肩へ重すぎるものを乗せていた。
ミセスマーロウは新聞を見つめたまま、小さく笑った。
涙が滲んでいた。けれどそれは、四年前の涙とは違っていた。
「……よかったわね、テリュース」
その呟きは、光の中へ静かに溶けていく。
スザナの怪我は、彼のせいではなかった。
もちろん事故の日、そう思えなかったわけではない。
わかっていたのだ。娘が、自ら彼を庇ったことだと。
それでも、誰かを責めなければ立っていられなかった。
あのときの自分は、あまりにも弱かった。
けれど今なら思う。
あの子を救いたかったように、彼もまた、救われなければならなかったのだと。
記事の中のテリィは、穏やかに笑っていた。
ミセスマーロウは胸の奥で静かに理解する。
ああ、この子はようやく――“普通の幸せ”を手に入れたのだと。
暖かな食卓。帰る場所。愛する人。
そんな、誰にでも許されるはずの幸福を。
そっと新聞を閉じた。
風がカーテンを揺らした。
「スザナ……」
静かに娘の名を呼ぶ。
もし今ここにあの子がいたなら、きっと泣きながら笑っただろうと思う。
そして最後には、こう言う気がした。
――よかったね、テリィ。
ミセスマーロウは目を閉じる。
その言葉を胸の中でそっと繰り返しながら、彼女もまた、小さく微笑んだ。
人は、誰かを傷つけた記憶を抱えたままでも、
過去を消せなくても、
それでも幸せになっていいのだ。
きっと、
それが生きていくということなのだから。