【G】GIFT(小さな贈り物)
二月のマンハッタンは、夜になるといっそう冷え込み、劇場を出た瞬間、吐いた息が白くほどけた。
ブロードウェイの灯りは今日も眩しく、通りには人が行き交い、劇場帰りの観客たちの笑い声が風に乗って流れていく。
稽古を終えたテリィは、コートの襟を軽く立てながら駐車場まで歩いていた。
今日キャンディは、診療所のボランティアの日だった。疲れているだろうなと思う。そう思いながら歩いているうち、ふと足が止まった。
通りの向こうにある高級食料品店。舞台関係者や富裕層がよく利用する店で、輸入菓子やワインも豊富に揃っている。一度キャンディと来たことがあるが、テリィ自身、この店には時々立ち寄っていた。
ワインに合うものを探したり、シャンパンと合わせるためにチーズやチョコを買ったり。
何気なくお店のショーケースへ目を向けた、そのときだった。視線の先に並んでいたのは、小さな箱入りのベルギーチョコレート。
深いブラウンの箱に、金の装飾。宝石箱みたいに整然と並べられたそのチョコは、当時のニューヨークでも高級品だった。ヨーロッパから輸入された菓子は上流階級の間では知られていたが、誰もが気軽に口にできるものではない。まして、ポニーの家のような田舎では、まず目にすることもないだろう。
そしてテリィは思い出す。キャンディと買い物に来た日のことを。
『きれい……』
ショーケースの前で足を止めたキャンディは、本当に目を輝かせていた。子どもみたいに素直な顔で。
『食べてみたいなあ、おいしいのかなぁ」
そう言いながら値札を見た瞬間、『うわ、高い』と、途端に現実へ戻されたような顔をした。
テリィは思わず笑って、
『食べたいなら買えばいいじゃないか』
と言ったのだが、キャンディは困ったように笑い、
『だって、この値段ならお肉たくさん買えるもの』
『そんな、大げさだな』
『大げさじゃないわよ。チョコにこんな値段、ちょっと勇気いるもの』
そう言いながらも、名残惜しそうに箱へ触れていた指先を、テリィは妙によく覚えていた。
結局キャンディは、『また今度ね』と笑って棚へ戻した。けれどその笑顔の奥に、“本当は食べてみたかった”という気持ちが見えていたことを、テリィはちゃんと知っていた。
テリィは無言のまま箱を手に取る。
店員が丁寧に包みながら、「贈り物ですか?」と尋ねた。テリィは少し考えてから、小さく笑った。
「まあ、そんなところだね」
店を出ると、夜風が頬を掠める。紙袋の中には、小さなチョコレートの箱。それだけなのに、不思議と足取りが軽かった。
キャンディはどんな顔をするだろう。
きっと驚いて、うれしそうに笑ってくれるだろう。
想像するだけで、自然と口元が緩んだ。
テリィは自分でも気づかないうちに、小さくハミングしていた。
車を降り、ペントハウスのエントランスを抜ける。夜景の灯りがガラス越しに広がっている。エレベーターが静かな音を立てながら最上階へ昇っていく。
その時間さえ、今日は妙に待ち遠しかった。
玄関の鍵を開けると、ほとんど同時にぱたぱたと足音が聞こえた。
「おかえりなさい!」
ぱっと灯りがともる声。部屋の奥から顔を出したキャンディは、ゆるく髪をまとめた部屋着姿、テリィを見るとうれしそうに笑った。
「ただいま、キャンディ」
キャンディはすぐ、彼の持つ紙袋に気づいた。
「なあに、それ?」
興味津々の目。
「なんだと思う?」
テリィは紙袋から箱を取り出した。その瞬間、キャンディの目が大きく見開かれる。
両手で受け取る。
「これ……この前の……!」
「食べてみたかったんだろ」
キャンディは信じられないような顔をしていた。
それから、じわじわとうれしさが込み上げてくるみたいに笑う。
「覚えてたの?」
「そのとき、すごい顔して見てたからな」
「だって……食べてみたかったんだもの」
その声は少し照れていた。
「ありがとう、テリィ」
キャンディは大事そうに箱を抱え、そのまま小走りでキッチンへ向かう。その後ろ姿を見ながら、テリィは静かに笑った。
――ほらな、思った通りだ。
劇場を出てから何度も想像した、そのままの反応。
それがたまらなく愛しかった。
テリィも自然とその背中を追う。
キッチンへ入ると、キャンディはもう箱を開けていた。
「きれい……」
並んだチョコを見つめる横顔は、本当にうれしそうだった。ひょい、と一粒摘まみ、そのまま口へ運ぶ。
「……おい」
キャンディはびくっと肩を揺らした。振り返ると、そこには呆れた顔のテリィ。
「ち、違うの! 味見よ!」
「開けて三秒だぞ」
「だって気になったんだもの!」
頬張りながら慌てて言い訳する。その姿がおかしくて、テリィは吹き出しそうになる。
キャンディは幸せそうに目を細めた。
「おいしい……」
ぽつりと漏れた声は、まるで夢を見ているみたいに甘かった。
だが、その口元には小さくチョコがついていた。テリィはそれに気づくと、ふっと口元を緩めた。
「……俺を誘ってる?なんて、そんなことないか」
「え?」
意味がわからず瞬きをした次の瞬間、テリィが顔を寄せる。
柔らかな唇が、口元についたチョコをそっと掠め取った。
キャンディの顔が一気に赤くなる。
「テ、テリィ!」
「うん、甘いな」
低く笑う声。
「そ、それって、チョコのことよね!?」
「さあね」
意地悪く笑うテリィに、キャンディは真っ赤なまま睨み返す。けれど、その瞳は笑っていた。
窓の外には、冬のマンハッタンの夜景。
遠くには、まだ眠らない劇場街の灯り。
テリィの本当に帰りたい場所は、あの舞台の上ではなく、こうして、甘いチョコを頬張りながら笑うキャンディのいる、この部屋だった。