【N】Nightingale(白衣の誓い)
ニューヨークの夜は、静かな雨に包まれていた。窓の外には無数の灯りが滲み、濡れた街路を走る車の音が遠くから微かに届いている。
ペントハウスのリビングには、柔らかなランプの明かりが落ちていた。窓辺のソファでは、テリィが分厚い台本を膝に広げている。ダイニングテーブルでは、いっぱいに紙を広げたキャンディが頭を抱えている。
「ええっと……違う、これ最後のページだわ……」
テーブルの上には、書いたメモや参考書、看護学校から届いた案内状が散らばっている。ここ最近のキャンディは、毎晩こうだった。
ニューヨークへ移り住んで二年。赤十字社へ登録しているキャンディは、地域の看護活動に積極的に参加していた。
そんな彼女へ、ある日、赤十字社から依頼があった。市内の看護学生たちへ講義をしてほしい、と。
内容は、“ナイチンゲール誓詞の意味”と、“患者へ向き合う心”。経験豊かな看護師や医師ではなく、学生と同世代のキャンディへ依頼が来たことに、本人がいちばん驚いていた。けれど学校側は、こう言っていたそう。
「技術だけではなく、“患者へ向き合う心”を学生たちへ伝えてほしい」と。
だが……
「どうして引き受けちゃったのかしら、私……」
両手で顔を覆う。その姿に、ソファのテリィの口元がわずかに緩んだ。キャンディがすぐ顔を上げる。
「ねぇ、今、笑ったでしょう?」
「いや?」
「笑ったわ!」
「まぁ……少しだけな」
「もうっ!」
キャンディは頬を膨らませた。
「真剣なのよ、こっちは」
「わかってるって」
テリィはくすっと笑いながらページをめくる。
「きみが講義してる姿って、なんか想像できないな」
「でしょ?向いてないもの、絶対」
キャンディは原稿へ向き直る。
「はぁ。難しいわね」
メモをめくりながら呟く。
「ナイチンゲール誓詞の意味って言われても、ただ読むだけじゃ駄目ってこと?……」
「ふうん」
「それに、“患者へ向き合う心”なんて、そんな偉そうなこと私に言えるのかしら」
テリィは台本から目を上げた。
「偉そうに話す必要はないだろ」
「え?」
「きみが思ってること、そのまま話せばいいってこと」
キャンディは少し黙る。雨音が静かに部屋を満たしていた。
「……そう簡単にはいかないわ」
「そうか?」
「講義って、もっとこう……ちゃんとしてなきゃ」
「“ちゃんとしてる”の定義なんて、そもそもないと思うけどな」
テリィは肩を竦めた。
「血だらけの患者抱えて走り回れる人間が、学生の前に立つくらいで怖がるな」
キャンディは吹き出した。
「その励まし方、変」
「本気で言ってるぜ」
そう言いながら、テリィはソファから立ち上がる。
「それなら……俺に向かってやってみたら?講義をさ」
ダイニングテーブルの椅子に座るテリィ。
「俺を学生だと思って」
キャンディは少し考え、やがて、ぱっと顔を上げた。
「……それ、いい案ね!」
「だろ?」
「じゃあ、本当に学生だと思って聞いてね」
「はいはい、先生」
その呼び方に、キャンディはまた少し頬を膨らませたが、すぐ真面目な顔になった。
ノートを手に立ち上がり、深呼吸する。そして、小さく息を吸い込むと、静かな声で読み始めた。
「私はここに集える人々の前に厳かに神に誓います――」
部屋の空気が、ふっと変わる。さっきまで「次どこだっけ?」と慌てていた同じ人物とは思えなかった。テリィは黙って彼女を見つめる。
「――私の生涯を清く過ごし、私の任務に最善を尽くします」
雨音が窓を打つ。ランプの灯りが、金色の髪を柔らかく照らしていた。
その横顔を見つめながら、テリィはふと、以前マーチン先生から聞いた話を思い出していた。
“キャンディは、誰より早く診療所へ来るんですよ”
穏やかな笑顔で、マーチン先生はそう言っていた。
“掃除をして、窓を開けて、患者さんが少しでも気持ちよく過ごせるように準備してくれるんです”
キャンディなら、そういうことを頼まれなくてもやるだろうとは思った。先生は、誇らしげに続けた。
“それがいつの間にか、若い看護婦たちにも広がっていましてね。今ではみんな自然にやるようになったんです。キャンディは、教えようとしてやっているわけではないんですよ。ただ、自分にできることをしているだけ、なんですけどね”
その言葉が、今になって胸へ沁みてくる。
「――私に害のあるものは決して用いず、知り得た秘密を守ります」
テリィは静かに目を伏せた。テリィの知らない時間。泣き叫ぶ子ども。熱にうなされる患者。疲れ切った家族。そのすべてへ、キャンディは向き合ってきたのだろう。
笑って、励まして、ときには、自分の悲しみを押し隠したまま。そしてそれを、きっと特別なことだと彼女は思っていない。そこが、彼女らしかった。
「――私は忠実に医師を助け……」
読み上げる声が続く。テリィは、その声を聞きながら静かに思う。
ああ、自分は、この人のことを、まだ全部は知らない。知らない彼女の人生が、まだたくさんある。そして、そのどれもが、今目の前にいる“彼女”を作っている。
そう思った瞬間、どうしようもなく、胸が熱くなった。最後の一節を唱え終わる前に、テリィは立ち上がっていた。
「――私の手に委ねられた人々の幸福のために――」
ふいに腕を引かれ、キャンディは小さく息を呑む。次の瞬間、テリィの腕の中へ包まれていた。
「……テリィ?」
驚いた声が、胸元で揺れる。テリィは何も言わず、その細い身体を抱きしめた。
職業人として生きる彼女。誰かのために尽くすことを、当たり前みたいに選び続けてきた彼女。
その生き方が、胸に沁みる。尊敬……いや、それ以上に愛しかった。
「テリィ? これじゃ授業にならないわよ?」
困ったように笑うキャンディへ、テリィは顔を埋めるようにして低く呟く。
「……いいんだ」
抱きしめる腕へ、少しだけ力がこもる。
「少し、このままでいたい」
キャンディはぱちぱちと瞬きをしたあと、小さく笑った。
「ナイチンゲール誓詞に感動したのね」
照れ隠しみたいに言う。テリィは、その声に目を細めた。
「そうかもな」
優しい囁き声が、耳元へ落ちる。そのまま、そっと顔を上げたキャンディへ唇が触れる。静かなキスだった。
雨音だけが、窓の向こうで続いている。
ノートはいつの間にかテーブルへ置かれたまま、講義の予行練習は、そこで終わってしまった。